授業が終わって

ちび太が生まれて最初の週の授業が終わった。寛容についての授業は月曜だったのでさすがに、ちとしんどかった。基本的にはLockeの解説。寛容とは宗教についての問題であり、具体的にはキリスト教についての問題であって、つまりは国家と呼ばれるようになったある政治制度との関係が主題になる、ということをテキストを読みながら少しずつ話をしてゆく。ただしこの国には現在ロックのこの書物の翻訳を新刊で手に入れることはできない。腐るほど出ているあの大量の翻訳書はいったいなんなのだ?べつにフィルマーの翻訳がないからといって文句はいわないが・・・。
ゼミではカステルの「社会的不安(全)」(うしろ試訳版)を読む。フランス語だとクリアーなのに、翻訳にするとやっぱりすこし取っ付きが悪くなる。どうしたものか。
ゼミはしかし最初のパラグラフでつまづく。civil (civic)とsocialというふたつの形容詞、つまり市民的と社会的、ということの意味がやはりわかっていない。この対比においては前者が政治的(そして世俗的も忘れてはいけないね)とも訳すことが可能であるということは、授業で口を酸っぱくして言ってるのだが、そのことの意味がまだやはりピンときてなかったようだ。とうぜん社会権だとか生存権の意味も、わからない。いっぽうで後者をアガンベン的なロマンチックなお話に引きつけて理解したがるのは、困ったものだ。
横文字は、なんだか高尚なものだという植民地根性からくるのだろうか。生存や生命という言葉をもてあそんで哲学ごっこをするのはかまわないが、せめて生存権社会権の辞書的な意味を押さえてからにしてほしい。
と、文句言ってもしょうがないので、粛々と解説。
しかしそれはむしろ異なる言語で書かれたものを理解するのはそれだけ難しい、ということなんだろうな。明治以来の努力の末にやっとこさっとこ、ここまできたということなんだろう。自分自身の実感としてもそうだ。基本的に翻訳語の語彙で考えられた自称哲学には、はっきり言ってある種の誤解というか誤読の上に成り立っているものが多いんだが、それはしかし支払うべき代償でもあったのだろう。その犠牲の上に、僕らの世代は(やはりぐらぐらしながら)なんとか立っているのだろう。
結局しかしこうした作業はどこかphilologiqueな作業に近づいてゆく。それはしかしphilologieが古典古代、つまりはギリシア語とラテン語をなんとか理解しようという西欧人の努力の成果(あと聖書学も忘れてはいけないな)でもあるのだから、当然ではあるのだが。そしてそれがぼくにとってのFoucault's effectであり、Althusser's effect でもあるのだ。フーコー入門とか、アルチュセール入門とか、関係ないね!