ふと

SOPがふとパパなんかいらない、いなくなっていい、とかかわいらしいことをいうので、まあパパがおじいさんになってぼけちゃったらSOPのこと忘れちゃうから大丈夫だよ、とついぽろりとほんとうのことを言ってしまうと、さすがにちょっと深刻な顔になって、やっぱりパパいなくならなくていい、と前言撤回し、だからパパぼくのこと忘れないよね、とまたまたかわいらしいことを言うので(おやばか)、うん忘れない忘れないと笑顔で答えると、親子は食卓でつかの間の和解を楽しむことになる。

そう考えるとしかし記憶というのは変なもので、親のことはなかなか惚けても忘れないみたいだ。まあ生存に関わるわけであるから、変ではないのかもしれないが、親になって、いかに親は子供のことをあれこれ気をもみ考えているかというようなことが分かったせいで、ついついこちらの愛情のほうが深いはずだと思いこんでいた。愛情とは何かというようなことを考え出すと、いろいろとまずいことも多いのだけれど、日常生活でそんな厄介事に拘泥するはずもなく、そこは子の心親知らずで、子供はいい気なもんだと、親はいい気に思っていたわけなのだった。
が、SOPが惚けるほど年を取れたならば、そのときSOPはおそらく世界中でただひとりぼくのことを思い出してくれる存在であったのだ。そのとき彼は、もしいたとしても妻や子のことはすっかり忘れていたりするのにだ。僕らは地上には存在していないそのとき、みずからの最後の瞬間に、もう誰も知らないぼくらをひとときだけ思い出し、求めてくれるのだ(一般的なケースの場合)。なんというか我ながら無用なことを考えてしまった。

記憶と愛情は違うよ、というのがたしかに平和な解決法だ。ただ、この逆説はうまく腑に落ちないのだが、なんとなく感動しないではない。

が、母親は思い出しても、父親は思い出さないという説もあったりするのが、この美談の欠点ではある。