追記

とはいえこうした痛みに、もし耐えるべき意味があるとすれば、この書物のなかで東欧にかんして語られた部分を注意深く読むことで得られる何かであるようにも思う。すなわち東欧諸国での、反ユダヤ主義。それと結びついた反知性主義ポーランドにおいては、体制に批判を繰り返すユダヤ系知識人(そのなかにはみずからがユダヤ系であることを知らない者さえいた。親が教えなかったからである!)にたいして、イスラエルなどへの国外退去をテレビを通じて促しさえした。愛国者たらざるば国を出て行けばよいということだ。どこかでみたレトリック!)であり、経済運営の失敗から繰り返される数々の「カイカク」の特徴、その政治主義である。とりあえず政治主義と名前をつけてみたが、この点については、この書物では今得ている印象以上のものを獲得するには、十分な材料を得ることはできない。

今ぼくが得ている印象を単純に言うと、号令をかければ、現場は従うという信念であるのだが。これもまた(左右を問わず、と言っておこう)よく見られるものである。サプライサイドへの改革を頭ごなしに否定するものではないが、しかしそのチャンネルについては、よく考える必要がある。マルクス主義経済学は、あるいは社会主義はといってもいいが、基本的にサプライサイダーに親和的なのだ。

旗を振れば人がついてくるのであれば、組織は必要ない。無理矢理にそうしようとするならば、「恐怖」が必要で、そのかぎりで結局スターリンがもっとも「うまく」やったとも言える。

いったいどのようなモジュールが組み合わされて、最終的にあのような状況にいたったのか、その点はしかし「まじめに」検討する必要がある(ま、主観的には以前からしていたつもりなのだが)。で、なおかつそうしたモジュールがなぜ、少なからぬ支持を受けたのか、たとえば西側で、そして一時的にはであれ、東欧においても。さらにはまた、そのメカニズムはどのようなものか、というあたりだ。もしそうした分析にある程度の妥当性があるのであれば、ぼくはそのモジュールの総体を「社会主義的」なモジュールと名付けてもいいとすら思う。正直に告白すれば唇を噛みながら、だが。

それができるのは、「われわれ」であり、「われわれ」しかいないからだ。どうやら!

それはいま進みつつあるあれこれの事態を、あまりに「社会主義的」であると批判してもよいのではないかと思う、ということだ。それこそ反省を込めて。ポリス的なもの、絶対王政的な統治思想gouvernementaliteもまた、すくなくとも外見上は、コスト=ベネフィット分析という形式、ないしは口吻をとりうるものだということは、よくよく検討する必要がある。

などなど。