それにしても

書物をひとつの素材として読む訓練をこのかん続けてきたわけだけれど、しかしそれにしても、ある痛みを感じずに読むことは難しいことは告白せざるをえない。

ヨーロッパ戦後史(上)1945-1971

ヨーロッパ戦後史(上)1945-1971

ヨーロッパ(亜大陸)という地理的に広大な領域の戦後史をいわばひとつのパノラマのように描き出すという途方もない試み。それはたしかに成功しているかのように見える(半分ほど呼んだ限りでは)。いっぽうで新旧含めた左翼運動についての冷徹な筆致については、上に書いたとおり。たとえもし自分で書いたならば、同じことを書いたとしても、いくらかはその痛みは軽減されたかもしれないが、書く、あるいは語るというかたちで外に出しつつではなく、読むという、いくらかなりとも受動的な形式で、否応なくそれを直視させられたせいか、自分でも意外なほどに心理的な抵抗を感じつつ、確かにそうかもしれない、あるいはこの部分の評価はいささかバランスを欠いているかもしれない、いやそのように同情的に読むことそのものが、ある種の態度徹底の不十分さを物語っているのかもしれないなどと、自問しながらの読書。

しかしここで語られる急速な産業構造の転換、そしてその帰結としての社会生活の変化について、ユーラシア大陸の両端では、あるレベルでは、そしてある時期までは、まるで双子のように(似ていない双子のように?)同じ経験をしてきたのだという印象は深まる。むろん日米安保条約がヨーロッパにおける北大西洋条約を、そのいくつかの条項はほとんど和訳といって差し支えないほどには、モデルにして導入されたものである以上、当然ある程度は同じ経験の見かけを取ることはほとんど必然ではあるのだが。

むろんそこには置かれた環境の違いや、あるいは見えていると信じていたことと、実際にそうであったことのあいだの相違や、それに由来する誤解などが存在しているはずであることもまた言うまでもないのであるが。

いつかわれわれはアジアについて、同じような規模のパノラマを描くことはできるだろうか。

しかしこの書物を読み、また派生してあれこれの書物を読むと、後期の授業の準備そのものになってしまう。得心のいかぬことがあるならば、別の歴史を語るしかないのであるから、やはりこの書物が与えてくれる痛みは、ひとつの課題であると考えるべきだろう。

たしかにこれまで多くを教えてくれたのは、つねに意に染まぬ読書からではあった。痛みはこのときぎりぎりの能動性を担保するものかもしれない。

仕事読みをしているので、鑑賞しながら読んでいるわけではないのだが、しかしJudtの物書きとしての腕はなかなかのもの。(そういう意味では、いわゆる歴史書というよりは、たとえばアレントの『全体主義の起源』などと比較されるような書物かもしれない)。