夏休みも

終わりつつある。

いつも休みの時期は日記をあまり書かない。日記を書くのは、だいたい拘束時間と拘束時間の細切れになってしまった時間で、本読んだり、論文書いたりするには、時間が足らない、そういうタイミングか、非常にストレスが溜まってしまって、しかし家に帰らないといけないのだけれど、リセットして日常復帰しないと帰るに帰れないときだ。だからだいたい一気に書いてしまう。
家に帰ってふと気になって読み返してみると、日本語になっていないのであわてて手を入れたりする。主観的には30分ぐらいだけれど、実際には計ったことはないのでよく分からない。

ぎゃくに長期の休みの時期は自分で時間のコントロールができるし、ストレスもないわけではないけれど質が違う。それにもともとあまり体力のあるほうではないので、家に帰るともう何かをやる余力はないことが多い。なにより、この時期にやっておかねば、学校が始まってしまうと、やろうと思ってもできないという焦りにも似た気分があるから、どうしても体力の限界まで追い込んでしまう。
そういうわけで休みの時期は、ある種のストレスはないのだけれど、煮詰まらないための気分転換が必用になる。それで、おのずと雑誌だったり、漫画だったり、そういう種類の本を読むことが多くなる。小説は意外と邪魔になってあまりよくない。頭の似た部分を使ってしまうのかもしれない。あるいはそろそろ目がヤバイということもあるかもしれない。

今年の夏にまとめて読んだのは、魚喃キリコだった。すこし手に入りにくくなっていたのものが復刊されたりして、南大阪のなんということもない本屋で買えるようになっていたのだった。しかしそれにしても漫画というのはたいしたものだ。「マイナー」と称されるものでも平気で1万部ぐらいは刷ってしまうから、日本の津津浦々で「マイナー」なものが読めてしまう。ちなみに文芸誌などというものはほとんど読めない。前のキャンパスの時は、気分転換に図書館でまとめて目を通したりしたけれど、いまや図書館も遠いし、雰囲気も悪いしで、また学生時代と同じように文芸誌とは縁遠い生活になってしまった。

図書館に並んだ本というのは、文化というのか、大学の歴史そのものといえなくもない。引っ越し直前の図書館はわけあってアレクサンドリアもかくやという悲惨な状態になった。なんというか、想像の中の甘美な廃墟ではないから、凄惨な感じだ。そこではもう信頼などというものは生き延びることはできないし、経験や歴史などはもはや無意味なのだと悟らざるを得ない。ちょっと大げさだけれど。大げさだけれど、これが「大学」と名のつくところで行われたことだから、なかなかに苦い。
日は暮れ、なお道は遠い。その遠い道のりを歩く気力はもう萎えてしまった。むろんそういう貧しさの中を生きていかねばならないのだから、いつかはしかし立ち上がらねばならないのだけれど。

貧しさはもし存在するのならば、知っておかねばならないことであるし。

そんなこんなで書物生活のインフラ部分は現在、駅の構内にある天牛書店の古本均一コーナーに支えられている。魚喃キリコの本をよく読んだという話だったのだけれど、そういうところに話が届く前に十分長くなってしまった。

夏休みが終わりに近づき、ようやく日記を書く気になるというのも、小学生の時からなにも進歩していない証拠かもしれない。しかもその内容は、要約すると、どうも道のりが遠い気がするので、学校に行きたくないけれど、休みも終わりに近いので、立ち上がって歩かねばならないという、泣き言なのだ。
しかし夏の終わりを締めくくるにふさわしい泣き言ではあるまいか(文豪風)。