麻生久『黎明』

じつはすでに戦前に出た新光社版を持っているのだが、天牛に寄ったら戦後に出た黎明書院版を発見。1700円。天牛では500円未満のものしか買わないことにしているのだが、この黎明書院版はちょっと特殊なのでコレクターズ・アイテムとしてつい買ってしまう(ふつうは順番が逆か)。
もともと麻生久の『黎明』は新人会時代の左翼活動を語る自伝的小説で、黎明会の設立に至るまでが書かれている。棚橋小虎や赤松、佐野、野坂、山名といった当時のマルクス・ボーイたち、そして高野岩三郎や最後には当然、吉野作造や福田徳三といった面々との半ば私的な交流が描かれている。

すでに持っていた新光社版は箱入りで装丁もなかなか悪くなく、本としてはこちらのほうがよいものだった。ただ、戦前に出版されたものであるから至る所に伏せ字があるのと、登場人物がAとかTとか、すべてアルファベットの頭文字になっているのは、まあ周辺事情を知っていれば容易に推測はつくものの、いささか隔靴掻痒のところはあった。今回手に入れた黎明書院版は紙もぼろぼろで至る所に書き込みもあるのだが、もちろん伏せ字は直され、編集部によって(とはいえ登場人物本人の許諾を得たようなので、信頼性は高そうだが)それぞれ本名が記されている。まあそういうわけでまた意味もなく本が増えるのだった。

「だが君、自然界にだって暴風雨と云ふものがあつて、宇宙の塵芥を綺麗に洗ひ落とすぢやないかね。暴風雨のあらひ去つた後の自然は君実に精々して気持ちがよくて、生き生きしてゐるぢやないかね。暴風雨と云ふ奴は自然界には必要なんだらう。いや或ひは必要でないかもしれん。併し君、それが必要であらうとあるまいと、好もうと好むまいと、そんな事は兎も角として自然界に暴風雨と云ふものが存在しているとい云ふ事は事実ぢやないかね。それと同じやうに、人間の世界にも、僕等が歴史の上でそれを知るばかりでなく、僕等の生きてゐる現在世界の此処彼処で起つてゐる。それはどうする事も出来ない現実ぢやないか」
「それでは君達は革命の賛美者ぢやないか」
彼は悲し気に憐れむ様に麻生に云つた。
「いや、そりゃ君違ふ。僕は賛美しやしない。僕はそれは愚劣な人間と云ふ動物の背にかついでゐるかなしむべき悲劇的運命だと思つてゐるよ。僕は元来人間を心の底から愛してゐるが、併し僕は人間と云ふものを少しも尊敬してはゐない。ちつとも偉いなんて思ってやしない。自分の当然行かねばならぬ進化の目標に近づいていくのに自分で自分の血を流さなければ行けないんだ。皆エゴイストだからねえ。僕等自身だつて皆さうじゃないか。それでも或る個人々々に就て見れば、自分の意志で、合理的に進み得る人があるかも知れないが、社会全体としてはそんなわけには行かない。力が総ての事を決するんだ。正義と云ふ事も力が伴はなければ実現出来はしない。慈善と云ふ事は個人的な事で、それでは君社会の塵芥は吹き払われはせんよ。僕は、革命と云ふものは、愚かな人間の本能が社会の中に自分自身で生み出す、止むを得ざる悲劇的な現象だと思つてゐるんだ。そして罪悪のために行き詰まつた社会が、その暴風雨に依つて洗はれたら、そこには清新な生き生き下社会が生まれ上がるだらうぢやないか。それは君行詰まつた社会の大掃除だよ」
「君の思想は危険だ」
「僕の思想が危険だ。ハハハハそれは君間違つてゐるよ」
「どうして」
「どうしてつて君、僕の思想が危険だと云ふ前に、何故君は人間そのものが、又社会其ものが危険だと云はないのかね・・・」

中身についてもいろいろ面白いことはあるけれど、これを読むとつい庄司薫赤ずきんちゃんを思い出してしまう。語り口なのか、こういう会話のスタイルなのか。
ちなみに麻生の対話の相手は「神戸の貧民窟に長く生活してゐて、関西のY(友愛)会の運動を援助してゐるK(賀川)」である。