気晴らしにラフに訳してみたなりね。

わたしのほかにも多くのひとがそうであるように、わたしは物語作家には、僥倖というものとそして時には、ものを見通す才能があると信じている。いや「才能」という言葉はただしくはない。そこには優れたなにかがあるかのように思われるからだ。そうでないのだ。それはたんに仕事上の技術の一部でしかない。つまり何かを想像しようという、やはりこの仕事に欠くことのできない努力と、いくつかの細部に精神を集中させておく必要。ただし手がかりの糸を握り、そして安逸に身を任せないために、その集中は強迫的なものとなる。この緊張のすべて、この脳の運動は、おそらくラルースの辞典の「透視力」という項目にあるように、「過去、あるいは未来の出来事にかかわる」閃光のような直感をいつかはひきだすことになるかもしれない。

お仕事に戻るナリよ。間違ってたら許してね。

おおしかし人生は楽しく、かつつまらぬものだなあ。carrierismeを信じることができれば、もっと楽なのだろうか。やっぱりだめなんだろうか。

ちかごろ、日常に、未知のことに出会ったときの、当惑と恐れと興奮を感じ、新しいものに陳腐と退屈を感じる。筋肉は硬くなり、以前と同じようなことがもはやできないいっぽうで、何にたいしても同じ動作を繰り返すしかないからだろうか。