ロックの

人身personの所有という発想は、やはりこの人は哲学者である前に、医者なのだなあと思う。彼は、そのさい、野山で拾い集めた林檎や捕獲した野生の動物たちを吸収同化する比喩に訴えており、じっさい同時代の仏訳者もそれをおもわず身体の所有corps physiqueと訳したりしている(ただし引っ越し準備のために手元に現物がなくてうろ覚え)。つまり同時代のひとたちにも現代の僕らが持つような「身体body」というイメージを抱かせたようなのだ。
ただしそのイメージが私物、私有財産へと労働を通じて拡大されていくとき、そしてそれが「自由」ということの根拠とされるとき、そのとき自由は、「わたし」たちの意のままになる移転や譲渡可能alienableなものではなく、一種の運命のような何ものかに見えてくる。
徳育において問題とされることが近代社会において、とりあえず労働と政治参加であるとして、ロックにとって、前者の比重が重きをなしているのは、こうしたある意味で政治制度成立以前の自然のなかに人間を置く発想からの帰結でもあるように思える。ただその結果、自由はまるで教会が人間を「死ぬべきmortal」ものと見なすように、まるでわれわれが「自由であるべきもの」であり、「労働すべきもの」であるかのようにさえ思えてくる。勝手な読み込みに過ぎるかもしれないが。
アレントであれば我慢のならないものであっただろう、こうした「自由」、こうした「労働」はしかし、たしかに、われわれにとって分かちがたいinalienableなものである。ただしその閉域はいっぽうで交換に晒されてもおり、交換を通じ、われわれの人身は、たのひとびとの人身と混じり合うことにもなるのだが、それを支える労働はわれわれの自由になるようなものではない。
採集し、耕しcultiver、狩猟し、育成し、飼育し、消化し、吸収し、同化し、わたしにとっての固有properなものとするこの労働によって、わたしにとって不可侵の私的な所有が生まれ、その世界は、それは公的なあらゆる世俗の権力の手の及ばぬ自由な空間とされるが、しかし逆説的にこのプロセスから逃れがたいものとなる。この身と思考は引きちぎろうとしても、引きちぎれるものではなく、自然に由来する基本的な権利であるところの自由とは、生半可な悟りや救済がおためごかしにすぎない自然のプロセスにわたしを組み入れることでもあるのではないか。
自由であることは引き受けざるを得ないなにものかであるような、ロックを読むとそういう気分がしてくる。