年頭の挨拶

リベラリズムを抜いてしまうと、福祉国家絶対王政になってしまう。絶対王政というと非合理なもののように思うひとも多いだろうが、むしろあれは過剰に合理的だというふうに見るべきだ。だいたい絶対王政のスローガンは中央集権化であり、何のためにそれをやるかといえば、封建的制度のようにローカル・ルールがあちこちにあるのは文字通りの意味で非経済だというので、集権化をやるわけだ。つまりルールの一元化によって見通しを良くして、効率的に社会を運営しましょうというわけだ。費用計算こそが絶対王政のもっとも重視するところである。もちろん計算を王様がやるわけはない。

君主鑑を君主が真面目に聞くと、ユートピアになる。というよりもユートピア物語は主権者である君主に向けて書かれた物語なので、それを実行しようとすると、当然のことながらユートピアを実現しようとすることになるというのが正確か。むろん主権者が交代すると、物語の宛先も当然に変わるわけで、だからいまではマスコミ向けに構造の改革を語る人がおり、またみずから改革を語るマスコミがいる。しかし構造といったところで、現場の人にしかじっさいの仕組みはよくわからないところがあるわけだから、よくわからないままに構造を変えようとしても思うようにはならない。
こういうのが汚れ仕事も込みになるのは、そういう「構造」は、表向きのルールにインフォーマルなルールがプラスされてできているからだ。現場のひとにしか目に見えない方のルールもルールはルールで、構造の一部であるから、いちおうネジは順番にはずさないと建物ごと壊れてしまうかもしれない。アドホックに作られた部品は、一見意味がなさそうだったり、非効率だったりするのだが、進化論的にいうと、それなりに意味がある場合もある。ないかもしれないが、ある場合もあって、その見極めは現場のひとにだってわかるとは限らない。チューリングではないが、数値計算の結果は、じっさいに計算してみるしか確かめようがないのだ。けれど計算機をぐるぐる回してみるのは汚れ仕事を伴うのだが、せっかちなうっかりハチベイは、そういう仕事には向いていないし、やる気もない。
他人に計算機のハンドルを回させたうっかりハチベイは、思うとおりの結果が出ないときっとこれはハンドルを回した奴が悪いのだろうと思って、別のひとに回させようとするだろう。あるいは計算機の部品が悪いのだろうと思って、計算機を解体して歯車やネジや軸を変えようとしてしまう。

つまり、うっかりハチベイは、社会の歯車であるところの人間を丸ごと変えてしまえということになって、だから教育を変えれば人間が変わり、人間が変わると社会が変わるという風に思う。

つづく