少なくとも

教育ということに限っていえば、車輪の再発明ほど有効というか意味のある作業もない。学生はどこかに車輪が転がっていて、それを使えば遠くにいけると思っているのだが、じつは自分で車輪を発明させておかないと、うまくその車輪を転がして遠くにゆくことはできない。車輪やトランスミッションやハンドルやブレーキを適当に拾って組み合わせても、自動車らしきものができるだけでいっこうに動こうとはしない。が、車輪だけでも再発明させると、結果的にその車輪が、いびつな八角形に過ぎなかったにせよ、とりあえずどこかには自分で転がせるというメリットが発生する。

再発明というのは厳密な比喩ではないのだが。比喩だからいいだろ。

何も知らなければ、ナントカ入門とか読ませずに、小刀と材木を与えて、適当に切らせてしまえばいいのだが、妙にナントカ理論の存在だけ知っていて、ナントカ入門には便利な道具がお手軽価格で揃っていると誤解してしまうと結構困る。
そういうケースでは、どこかに売っている車輪を買ってみて、横に倒して座ってみても、どうにも前に進みそうもないということに、自分で気がついてくれたときがチャンスなのだが、なかなかそういうチャンスはないので、人為的にそういうことを気づかせようとすると圧迫面接のようなことになる。
なにが困るといって手取り足取り教えると再発明したことにならないということだ。もうちょっとソフトな感じにしたいのだが、なかなか難しい。

「少なくとも」と書いたのは、じつはそれ以外にも、という含みがあるのだけれど、そんなことを書くとじゃあ人文科学ってなんだろうということになって大変にやっかいなことになってしまう。が、おれはそれが楽しいのだ(苦しくもあるが)。
ただまあ、人文科学の場合いまのところ車輪といわれているものはどれもこれもいびつなかたちをしているような気もするので、再発明しておくと、どっか違うところや、もっと遠いところまでいけそうな気がしないではないということは、ある。もちろん高速道路の入り口にたどり着いたところで人生が終わるというリスクと引き替えだ。もし高速道路があるのならば。これもしかしよくわからない。