雑誌でも

提灯記事というのは昔からあって、もちろんいまでもあるのだろうが、それにしても、一定の中立性は装うものであるし、そうでない場合、たとえばその当の雑誌内容を模したようなレイアウトのまぎらわしい広告を入れたときには、端っこのほうにこれは広告であって記事ではないと断ってある。

たとえば大阪の下町のボクシングしかやってこなかった未成年の少年が、世に出るために、とりあえずできることならなんでもやって夢を叶えようとするのは、その手段が良い悪いでいえば悪いこともあるだろうが、悪いからといって止められるようなものでもないし、どっちかというと頑張れという気持ちのほうが強い。いまでもまだ。それはけっきょくうまくいかなったり(その可能性はやはりまだまだ高い)、それに途中で死なないかぎり、その後の人生のほうが長いから、自分でも処理できないようないろいろなものを抱えてやって行かざるをないケースが多いだろうし、そうしたことも結局は自分の責任だから、そういう意味では自分で拭けるとこまで自分のケツを拭かざるをえないのだろうな、と思うからだ。じっさいいまもすでにそうなりかかっている。なんというかリスクを全部でないにせよ引き受けているし、引き受けざるをえないところがあるように見える。

やくざがボクシング見ようが、ボクサーを応援しようが、応援するついでに個人的に利用しようが自由であるし、もっぱら利用だけしたところで、不道徳だからやめろといって止まるものではないし、不道徳や不法なことでもやるのがやくざだから、説教したところで意味はないし、するつもりもない。関係のないところにいようと思うだけだ。だいたい礼儀正しいやくざほど怖いものはない。

そういう世界に不利な人が多いのもあたりまえで、日銭の稼げる仕事にそういう人たちが多いのと同じ理屈だ。移民したら多かれ少なかれそうなる。だれもが正規のルートで社会に入ってゆけるはずもないから、むしろ、そういうルートを広げるか増やしておくのが、まっとうな大人の対応というものだろう。

そうするしかない19の少年を取り囲んで、あれこれ言いつのったところで、だいたいボクシングだけで、行けるところまでのし上がっていこうとしているのだから、何の意味もないし、だいたい今のところ彼にはボクシングを続ける以外の選択肢はない。いろいろいわれている父親にしたって、十分な教育を受けているわけでもないし、手持ちの利用可能なリソースは限られている。だから弁護する気はないが、それ以外にやりようがないのだから、使えるものは何でも使うだろうし、やれることは何でもやるだろう。良い悪いでいえば悪かろうが、それしかなければそうするしかないと思ってしまえば説得で止まるものでもない。自分でケツを拭く覚悟でやれることはやってしまうだろう。

そもそも普通は、自分でケツの拭ける以上のことは、どんなにあがいても個人の力ではそうそうできるものではない。

だから不愉快なのは、ネクタイをした奴らで、人並み以上の給料をもらい、安定した地位と、毎月の社会保障の掛け金、そして老後の年金と安心を得ることできる奴らであって、奴らが人から後ろ指指されることなく、結婚するときだって障害があるわけでもないのは、それなりにルールを守るまっとうな社会人であって、しかも公共性の高いとされる仕事をしていると考えられているからだ。それはメディアという組織が過去に現在にはたしてきた役割あってのことであるのに、奴らは、何も考えずにはしゃぎ回って、手にした権力を存分にふるって組織的にそれを食い物にしている、いまのところぼくにはそう見える。

(合法的な)組織と個人は違うだろう。

たとえばトヨタが放送局をひとつ手に入れ、新車の発表の前に、あらゆる番組のなかで、それが広告か報道かも曖昧なかたちで、その新車の宣伝をし続けるようなことが、現在はたしてあり得るだろうか。そういう洗脳まがいのことが、はたして現在許されるだろうか。これほどあからさまに、組織的に、それを公器を使って行うことは、はたして可能だろうか。

もともとお役所に近いところにいたから、大きなお金が落ちるところには、「民間」と称されるひとびとがそこにぶら下がっているのも知っている。公共性の高い仕事が多いわけだが、常にフェアなかたちで競争が行われてきたわけではなかったことは、まあ、たしかだ。それとて昨今の「世論」のせいで、ずいぶんと事情は変わった。公共性の高い仕事であるメディアの報道あってのことだろう。たとえばサッカー協会なんかの財団法人ではいうまでもなく、一般企業であっても、あまりにあからさまに、たとえば愛人の会社に不正な価格で業務を発注するようなことがあれば、株主から会社への損害を与えたという理由で訴えられるだけでなく、社会的責任という観点から批判をうけるような社会に変わってきている。やつらが眉をひそめて一生懸命報道してくれたそのおかげだろう? タレントや評論家を使って19歳の少年を英雄として褒めそやしたそのあとに。

ひそめたその同じ眉を、今度はどんなふうに使うつもりなのか。19歳の少年とその父親に全部をひっかぶせるつもりだろうか。これ見よがしに、貧しい者はしつけがなっていないと、また眉をひそめさせるつもりなのだろうか。
大きなお金にぶら下がった外部の人間に全部をひっかぶせるつもりなのだろうか。そこに甘い蜜があると知っていれば、だれかがそれをすすりに来るのはあたりまえじゃないか。誰かが吸わなければ別の誰かが吸うに決まっている。そこに蜜があるかぎり。

だから問題はあくまで「こっち」の側の、ネクタイをしめた奴らであって、誰が企画し、だれが電波を私物化して、広告と報道を曖昧にし、それに誰がゴーを出し、どこに金を落とすことを誰が決め、誰が決済したのかが、そのことを「こっち側」のわれわれが本来考えるべきであって、それ以外のことは、とりあえずはどうでもよいことだし、むしろ問題を曖昧にするという弊害のほうが大きいと思う。

もし少年がチャンピョンになれなかったら、それに賭けた人間の目が節穴だったといだけのことで、その人間に賭けてしまった組織がもしあったのなら、たんに賭けに負けたというだけのことで、判子を押した奴が責任をとればいいだけのことだ。いやなら賭けなければいいだけだし、ネクタイを締めていたいのならそんな賭には乗らないというのが普通の判断だろうと思うが、きっといまごろは、高かった視聴率と、ともあれ話題としての盛り上がりに、ほくそ笑んでいるだけで、その足下がどんどんと揺らいでいることに気がつきつつも、崩れきる前に逃げ出せばいいと考えているのかもしれない。