イスラエル

からの速報ではハマスが米欧露国連との話し合いのテーブルにつくことを決めたようだ。

寛容という原理は政治−哲学的に不十分なものだという批判があるが、それにはつねに違和感を感じてきた。歴史を振り返ると、宗教戦争を終わらせてきたのは疲労であり、寛容とはその別名ではないのか、という気分をぬぐうことができない。歓待とはおそらく平時の原理であり、残念ながらそれは時宜を得ないものではないかという疑念だ。哲学あるいは文学的に魅力的なものであることは認めるが、それは(戦争が政治の延長である限りで)政治の概念ではないといってもいい。ときに私的な、と称される政治あるいは社会的な空間の異なる側面に張り付いているような原理ではないか、ということだ。
そこからすると寛容はしかしもはや原理といったものではないだろう。むしろそれは原理あるいは原則の放棄を原則にしているからだ。いや放棄ですらなく、端的に目を背けるということなのだろう。

イラクでもあまりに多くの血が流れており、アメリカにとってもそろそろ潮時ではないかと、そう思いたいのだが、何度もそれが裏切られてきているだけに、過大な期待はむろんできはしないのだが。にしてもハマスパレスチナの代表として事に当たれることは、ひとつの可能性であるようにも思うのは甘いのだろうか。

目を背けることはしかし難しい。根本的には何の解決にもならないことを知っていてそうしなければならないからだ。そしてそれが正しいことだとは誰にも思えないからだ。

それは素振りであり、概念ではない、ということか。

そしてイラクのモスルでは自爆攻撃があり、また30人以上が殺されたらしい。軍隊へのリクルートの最中だったそうだ。

いい加減な商売をしている男を国会に喚問するかどうかをいったいいつまでニュースとして扱うつもりなのだろう。むろんそれは自分で自分の首を絞めているのだが、気づいたときにはもう指が入らないほどきつく絞まっているのだろう。

悪の凡庸さとはこうしたものだ。