疲れたので

ウィルソンの批評集をぱらぱらめくると、ナッシュヴィルの話が出てきた。今日読んだ仕事がらみの本でもやはりナッシュヴィルに出かけていって、ヴァンダービルト大学で集中講義を受ける話が出てきた。これは日本生産性協会がらみで出かけていっているので、つまりマーシャル・プランに代表される冷戦期アメリカの外交政策の話。ウィルソンの方は、テネシー農本主義者たちという短い文章で、つまりはそれとは全く別の産業社会の外側(厳密に言えばそうではないのだが)のアメリカの話。

概して、彼らの人間関係は、われわれが機械化された制度のなかで失ってしまったある種の満足感を具えていると言える。それはわれわれの人間関係よりも封建的ではあるがもっと柔軟に維持されている、因習的であるがもっと暖かみと親近感があると言える。そのなかでは、男と女はまだ男と女として、さらに、いわば血縁は血縁として、友達は友達として会うことができ、主人と召使いは依然として主人と召使いなのである。そして、そこにまだ耕作することのできる農地を持っていて、そこから生計を得ることができさえすれば、その人はわれわれのうちでもっとも不幸な人間であることはまずないだろう。

いや「厳密に言えばそうではない」ことはウィルソン自身がよく知っている。であれば、最後の一文の、どこに強調点をおいて読めばいいのか、あるいはもし前半部分に強調点をおいて読んだとして、ウィルソンが何を書こうとしているのか、すんなりとは理解できない。

それはともかく今日一日で二回ナッシュヴィルとヴァンダービルト大学いう名前をみたことになる。

エドマンド・ウィルソン批評集〈1〉社会・文明

エドマンド・ウィルソン批評集〈1〉社会・文明


この本では、上に挙げたエッセイの次には「フーヴァー・ダム」が収録してある。

アメリカ。アメリカ。

パレスチナでは早くも揺さぶりが始まった。軍事的な解決というものが、現在より不幸でない結果をもたらすことが想像できない以上、選挙でのハマスの勝利は原則として良い方向であると考えたいと思っていたし現在でもそうだ。が、しかし、ことがらはやはり単純ではないだろう。流された血の量はこれでもまだ十分ではないのだろうか。

いや揺さぶりなのだろうか。英米の監視団がある種の連携のもとに動いていればそうだろう。けれど、このような場合にしばしばそうであるように、軍隊や軍隊の一部と密接に結びついた政治家たちの、独自の動きであったとするならば、合理的な振る舞いを前提してはなるまい。

一刻も早く仕事を仕上げてしまおう。