こぴぺ

問題が盛り上がっているみたいで、いろいろ正当化の理屈を考えているようだが、それはそれで勝手に主張されるがよいとして、結局それは権力のありかがどこにあるかが分かっていないという点で甘いなあと思うのだった。そのへんぼくがつらいのは、おそらく予想される権力行使の結果がぼくにとってもあまり楽しい未来ではないということなのだ。誰も得をしないというか。若いってまあそんなものかもしれないが。

一人称については、昔小学校で「ぼく」を使うように指導された。口頭では「ぼく」を、文章では「わたし」をだった。女子はよく知らないが、口頭では「あたし」を、文章では「わたし」をだったのではないか。いなかでは、「おい」、「あし」、「あたし」があって、「あし」は男女とも使うが、あまり奇麗な言葉ではないとされていた。妹はしばしば「あし」を使っては母親に、「また汚い言葉を使って!「わたし」っていいなさい」と怒られていたが、そのときは母は「わたし」を「あたし」と発音していたと思う。しかしかく言う母親もしばしば「あし」を使ってしまい、妹は母ちゃんもつかうくせに、とぶつぶつ言っていた。おれは文化的でbookishだったので「ぼく」だったような気がするが、複数形になるとなぜか「おいらー」となってしまった。ちなみに二人称は「いな」であり、これは同輩か目下にしか使えない。妹は怒ると弟を「いなー!」とか、「おまえーっ」呼んではまた怒られていた。丁寧になると「あんた」だ。ただ目上と目下の両方に使うので、教師も「あんた」呼ばわりだった。が、もちろん「センセイ」と呼ぶのが奨励されていたので小学生のうちはみんな「センセイ」だった。中学では授業中注意されたりして喧嘩になると教師も「いな」呼ばわりされていてかわいそうだった。

複数形にすると少し丁寧な感じになるのは西洋語に少し似ているかな(「らー」が複数形の語尾)。

「おいてめえふざけているとなぐるぞ」、というのは「わりゃいなーなめとったらどしかますどお」あるいは「どしこんだるどお」とか「どしこんだるじょー」になる。文章にすると理解可能だがイントネーションが全然違うのだ。

しかし最近はそういう人称はすたれてしまい、だいたい「わたし」と「ぼく」に統一されつつある。慶賀の至り、なのか。

「ぼく」にせよ「わたし」にせよ、関西弁にせよ、標準語にせよ、フランス語であってもそういう意味では他者の言語だ。さすがに日本語はいまでは意識せずにつかえるようになったが、高校に行ってはじめて故郷を出たとき、自己紹介をしたら教室中がしーんとしているので、さすがに港町とちがってみんなおとなしい。誰も私語をしないで人の話を聞くと感心していたが、あまりに静かすぎて奇妙でふと目があったらが、その子が手をおずおずとあげて、意味が分からないのですがと申し訳なさそうに言った。あのときの足元がおぼつかない感じはいまでも忘れられない。

俺はあちら側の「ふみ」の側の人間だと思っていたら、「こちら側」の人間、バルバロイだったのだ。しばらく日本語を意識してしゃべるという経験をした。いまでもときどきそういう感じになるときがある。

まっ、このへんのぐずぐずした感情は優等生固有の問題であって、まったく普遍性のない話なんですが。

mayakov: なんで優等生固有の問題なの?
おれ:だって、文章かかへんやん、優等生しか。
mayakov:神戸ではそんなこと通用しませんよ!