ハリケーン被害

はいろいろ考えると地球温暖化のせいにしとくのが一番無難だな。選挙だし。それにしても救援活動もままならないというのはしかし尋常ではない。復興のめどなどしばらく立たないだろう。社会の安定というものがいかに危うい土台のうえに築かれているものか。
http://hiddennews.cocolog-nifty.com/gloomynews/2005/08/37004_3ab9.html

トクヴィルの時代は遠くになりにけり。

しかしかつてであれば、これだけ(好景気で)貧困化が進むと速攻、社会政策という話になったであろうが、こういう被害すらも想定済みの(支払うべき)リスクということで、貧困化方針は変わらないのであろうか。変わらないのであろうな。

負の所得税とかbasic incomeのような、自助努力を基本思想とした最低保障のみの社会政策が、社会政策としてどれほどの有効性があるのだろうか、とふと思う。もし支出に見合った効果(恣意的なものであれ)がないのであれば、そもそもそういう最低保障ごとやめてしまえというのが経済学的には正しいということにはなるだろう。そんなに無駄が嫌なのならば。

災害保険もあることだし。そういうのに入っておけば、すべては想定内というわけだ。しかし映像を見ていると釈然とせんのだがな。(「この子がぐったりしてきたの、生まれて二ヶ月なのよ。」)それはしかし克服すべき感情論なのだろうか。たしかに自己責任なんだろうよ。
salus populi suprema lexというフィクションを「どのくらい」ではなく「どのように」保障するのか、という問題ではないのか。あるいはやはりたんなる程度問題なのか。彼/女らは人民ではない(国民?国民ではあるが人民ではない?)、という解釈もまた可能ではあるのだが。(その意味では程度問題ではある。)

こうなるとしかし(黙示論的)宗教に走るしかないだろうな。(小金持ちの精算主義とは違って過激だよ。オウム程度の中産階級宗教ですらあの程度の混乱だ。)小泉(支持者)にたいするそこはかとない反感はそこだな。小金持ちの火遊び。次の洪水は死んだ後ならいいんだけどな(むしろ地震を心配すべきか)。

因果はめぐるといったのはお釈迦様だったか。ポリビウスだったか。