前回の

選挙のときは日本にいなかったので、今回小泉というひと(というか小泉支持のひとのメンタリティ)のことがよくわかるのではないかと期待していたのだが、あまり新しい理解は得られそうにない。

とりあえず、このままだと子供っぽいという結論になるのだが、それでいいのだろうか。日本新党の頃からまるで進歩がないというだけのことか。deus ex machina.劇場政治だからそうなのだろうか。だとするとこれは世評とはことなり、「政治」なるものがメディアの表舞台で、その存在感の増大させているにもかかわらず、政治の市民生活(というか意識というか)から乖離のプロセスをいっそう進展させているということになる。幕が引けば、ただちに日常の市民生活に復帰。つまらない演劇に立ち会ってしまった場合に望まれているのが、カタルシスをもたらす最終的解決ではなく、たんに席をたって家路につくためのきっかけにすぎない場合が多いのであれば、ともかく幕を閉じてさえくれれば、それが偽物の機械仕掛けの神であっていっこうにかまわない。そもそも期待されているのは救済ではないのだから。適切なときに話を打ち切ってくれればそれでいい。われわれはべつに人生がある。

ハリウッド映画の作法の影響は侮れないものがある。たとえば物語の枠組みに表現されるイデオロギーというのがあって、かつてはナチが、またマッカーシー旋風という(レッド・パージでもあれば、ユダヤ人排斥でもあるような)大衆運動があったそのあとでは共産主義が民主主義の敵だった。個人を圧迫する全体主義が行政府の姿をとることすらあった。最近ではしかし行政府は正義の味方である場合が多い。悪徳警官は以前ほど見かけないようなきがするんだが気のせいか。日本にいるからかな。
娯楽作品はしばしば枠組みが軽くて、表現される中身に精魂を込める傾向がある。ディテールに傾注すればするほど、枠組みは負担の軽いものになってゆく。テロリストや犯罪者が主人公の敵となったのはいつ頃からだろうか。こういうスカスカの枠組みをCGで埋めたり、ガジェットで埋めたり、なぜか露出度の高いおねえちゃん(妹か最近は)で埋めたり(その結果ないがしろにされているのは個体のレベルのリアリティなのが皮肉なのだが)。いまや軍隊でさえポリスである。マスとしての人間はまごうことなく動物である。
なにもそれは枠組みを信じているとかそういったことではなく、端的にそういう枠組みへの関心が低いということだろう。だからといってその影響がないとはいえないのがやっかいなところだ。

たしかにかつてに比べれば、いわゆる政治(とりわけ立法府の活動)が社会生活に与える影響の比重は小さくなり、そのいみで選挙はますますセレモニー化していることはたしかではある。だからといってその影響がないとはいえないのがやっかいなところだ。

しかしこういう現象そのものにぼくが倦んできていることもたしかだ。もう何年も取材していない自称ジャーナリストもまた登場人物のひとりであるような、「政治」の舞台にそのものに(そうメディアのひとは定義上参与観察は不可能なのに)。選挙(つまり民主政)とメディアは切っても切れない関係にあり、それは本質的に劇場空間たらざるをえないように見える。が、丹念にそれを解体してゆくしかないのかもしれない。政治を身の丈に応じて生活の中に組み込むこと。

たしかにエヴァンゲリオンは、テレビシリーズの過半を閉めるおのおのの場面のその無惨さによって「あるところまでは」こういう状況に対する批評として成立していた。ただしその幕引きの部分は逆にそこで力がつきてしまったようにおもう。いらだちはよくわかるが、しかし結論を言うのが早すぎたのではないか。(あれに熱狂するひとたちの醜さというのもよく分かるんだがなあ、たしかに。)かならずしもそれは親切とはいえまい。結論はいずれにせよそれほど重要なものではない。

もすこし観察しよう。