金曜は

yeuxqui2005-05-22

研究会。アザールはなんとかぎりぎりで読めた。髪の毛も切れた。『花椿』も買えた。

ポール・アザール、野沢協訳『ヨーロッパ精神の危機―1680-1715 (叢書・ウニベルシタス (84))

ぎりぎり読めたのは、すらすら読める文章だったおかげ。訳もよくできてるということもあるが、アザール、思想内容にあんまりつっこま(め?)ないタイプの人のようだ。ただ、ある種の「言い落とし」には注意をしないといけなくて、そこが腑に落ちなかったのだが、まあ研究会で議論しているうちにだいたい分かった。
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ちなみに、むかしむかし京都に集中講義にきていたのちに比較文学の大物となる教授が当時推奨していたのがこの本とのこと。なーるほどね。比較文学ってのはその辺から来てるのか。つまり50−60年代に留学した連中が授業やゼミで教えられたある種のベースであるのだが、だったら第三共和制のイデオロギーもついでにまじめに導入しとけよ、と思わぬでもない。

ものの本によるとそれは「民主主義・連帯・祖国愛 democratie, solidarite, patrie」だそうだ。

Je renierais ma patrie ? まあたぶん。あなたが求めるのなら。

ただしそういうある種の政治性(というかむしろその歪み)は16〜17世紀についての最低限の知識がないと気がつかないことは確か。訳者氏は当然気がついていたわけだが、さてビバ!比較文学だった人たちはどうだったのか。

いずれにせよこの本は野沢協の訳注とともに、というかむしろそちらを?玩味する本ではある。

こういう抜群に偉い人(しかも筆も立つ)に気がつかないというのはまあ、結局ひとが読むのは評判であって中身ではないという経験則。さすがに同業の人たちは知ってたはずなのだが、どんな顔していろいろ輸入したり、ご託宣を述べていたのだろう。不思議だ。

アザール、こっそりカッシーラーを読んでいたのではないかとの推測も幾人かが。

土曜はひさしぶりにお出かけ。toiに寄って、ウツボ公園に。パン屋さんは雑誌で紹介されて以来恐ろしい行列。神戸ナンバーや横浜ナンバーまで。店員さんに聞くと平日はさすがに落ち着いてきたとのこと。紹介される前から行列のできるパン屋で閉店まで全部売り切っていたわけだから、なんというか有名になることの意味というのもよくわからない。パン屋のにわか専門家としては生活圏あってのパン屋なのだが、しかしたしかに日本の、というか関西の生活圏はむやみと広い。車と私鉄の発達が都市の範囲を画定しているためにそうなるのだが。

クロポトキンを読んで刺激されたハワードの田園都市論はかなり早くに日本にも輸入される(内務省地方局有志『田園都市』博分館。明治40年だからええと1907か。まあリアルタイムだよな。)のだが、都市交通の発達は郊外都市をハワードの構想とは違った形で実現することになる。

田園都市は、ゆるーーーくブンガクの話にすると白樺派になるし、北海道や満州に目が向くと小農主義(デンマーク)になるのかな。柳田もたぶんまあ無関係ではないだろう。日本人の、というか福祉国家の北欧好きの源流といいますか。さいきんだとちょっと南に下ってオランダですか。

しかしそれは、もう15年くらい前になるだろうか、かの国の電気会社の偉い人が、この街では出窓に鉢植えの花を飾ったりして、いかにも小市民的平穏さを見せているけれど、それはあくまで表面上のことで、じつはもう私たちの国では家族は解体してしまっています、と述懐していた、そういうのとセットだよなあ。まあまだオランダとかユダヤ系受け入れてたりするけど、北欧っていえば人種差別(優生学)とフリーセックスっていうイメージだもんなあ、普通。なんでか知らんCasa なんとかになってるけど。

パルプ・フィクション』で、トラボルタに、このヤクここでいっぱつ試していいかいときかれて、売人がMi casa su casaっていうけど、どっちかつっと、そういうイメージだよなあ。ヤクやったり、ユダヤ人追い出したり、断種したり、児童ポルノ作ったり。売ったり。

なにがって、だから福祉国家が。

北欧に行くとちょっとあれだから、オランダぐらいで止まっておくのがまだいいのかなあ。断種とかちょっと怖いよなあ。でも日本人ってほっとくと北欧目指して進みそうでちょっと怖いよなあ。いやー南の方がいいよ。あったかいし。飯もうまいし。

アナーキスム、みんな妙に好きなんだが、ちゃんと読んでるんだろうか。政府の否定というから過激に見えるが、あくまで中央政府の否定だから、言ってる内容は地方分権の分散型政治システムを設計しましょうということで、とくにクロポトキンなんかだと、そのシステムを可能にするのが科学技術と有能なテクノクラートということになっている。あれは技術屋さんたちの政治思想というふうに考えるのが正しい。それはべつにプルードンだって変わらない。鉄道という大量輸送システムとアナーキスムは切っても切れない関係にある。

まあそんなわけで三つの都市圏が私鉄で相互に結ばれた関西のありようは、奇妙にクロポトキンの構想を実現するかたちになっているようにも見える。奇妙なことに。アナーキー都市。ああ奇妙でもないか。

クロポトキンが書いたブリタニカの項目は、鉄道による郵便輸送の話から始まっていて、ヨーロッパの鉄道網の複雑なダイアグラムは、中央政府のコントロールなしに実現された、複数の意志決定主体が事後的に作り出したハーモニーだということが書いてある。それがアナーキスムの秩序であると。

ただし、クロポトキンも二重の意味でそう書いているように、おそらく工学的にはこの手のシステムには遊びがないとまずいわけだが、さて(イマノニホンジンニハムカナイノデハ。少なくともマネージメントの思想、本当の意味でもホワイト・カラーが必要になる。)。

さてJRのくだんのダイアグラムは、ひとつの意志決定主体の完全なコントロールのもとで作り出された「遊び」のないシステムなのか。それとも増築に増築を重ね、屋上屋を架し、破れ目に弥縫を施した、ピースミール・エンジニアリングのはての(その意味ではアナーキスムの)失敗だったのか。

遊びはなさそうだよな。きっちり数字で割り切ろうとする伝統もユートピア思想の特徴ではあるんだが。

いや、その都市圏はすこし大きくなりすぎたのではないか、というそういう話を書こうとしたんだった。

しかし現実にはもうそうも言ってられない。おれたちは移動しながら生きている。18世紀の人生が旅であった浮浪者(vagabond)たちの、19世紀の木靴を履いて工場に通ったプロレタリアートの末裔は、20世紀には電車に揺られて寝たり新聞を読んだりしながら移動していた(うのちんは新書を読んでいるid:Shigeki:20050519)。こんどはどうなるんだろう。人が減るのは確かなのだけれど。

前にも書いたなあ。この話。ハワードの構想の変容ということでいうと中野隆生の『プラーグ街の住民たち―フランス近代の住宅・民衆・国家 (歴史のフロンティア)』がいいのかな。この本で紹介されている労働者向けの低廉住宅が数多く建てられたのは前にパリにいるときに住んでいたあたりだ。カヴェニャックとかその辺の名前が付いてる通りからほど近い地域。セリエとかのこと書いてる本って日本語だとあんまりないと思うんだよな。もう中身忘れちゃったけど、いい本だったと思う。
プラーグ街の住民たち―フランス近代の住宅・民衆・国家 (歴史のフロンティア)

写真の建物にはLABRO, ARCHITECHTE,1898と銘が刻んであった。残された看板から想像するに、一階にはおそらくペラペラの化学繊維でできた安物の服を卸す店が入っていたのだろうが、ずいぶん前に店を閉めたまま空き店舗になっていた。