ところで、これどうなんですか。
http://www.be.asahi.com/20040515/W12/0025.html
さいきん売れっ子の経済学系評論家ですが。野村総研の社員でもあるらしい。

けっきょくぼくの意見は
http://d.hatena.ne.jp/yeuxqui/20040420
http://d.hatena.ne.jp/yeuxqui/20040517
に尽きます。
メディア時代の権力ってなにか、っていうのを考えたとき、ぼくにとってはある問題を解決する能力を持った何か、というより、何が問題かを決める力をもったものだ、と思うのです。マジョリティってそういう意味をこめてます。たぶんこの議論は乗っても無駄だと思うのです。もし何かがマイノリティであるなら、その役割は別の方向を指し示すことのように思います。いずれにせよ与えられた条件内で問題を解決する現実的な力を持っていないからマイノリティなのだと思いますから。だから状況から疎外されたものにできることは何かを考えると、この距離を利用して、考えるべき問題を考えて、別の問題を指し示すことだと思います。そして、この国の奇妙なメディア状況を考えると、それは奇妙なことに本来問題があった場所を指し示すことだと思いました。
かしこ競争は賢いひとに任せればいいと思います。
もちろんこの問題に内在したかたちで相手につきあうことはやはり一時的には必要だということは認めます。そういう汚れ仕事をやっている人をこころのそこから尊敬します。けど、同時にそこには問題はないよ、っていうことも、誰かがいわないといけないと思ったので。そろそろ、「その先」のことを考えるべきころだと思います。(あるいはぼくはなぜこのきわめて優秀だと思われる経済評論家氏がこの問題にここまでこだわるのか、ぼくにとってはその方が重要な問題であるように思います。おそらくここ、にもうひとつべつの重要な問題があるように思います。)
組合なんぞをやっていると、解くべき条件はすでに与えられていることがほとんどですから。その場合、自分の力量に見合った問題を見合ったようにしか解けません。それはしかしその場所を「たまたま」占めさせられたものが、本意ではないのに、と思いながらやることで、その特殊な場所を占めたものがやらないといけない行為をわざわざ一般化する必要はないように思います。
もっとも自分自身である特殊で具体的な場所を占めて、ある条件を受け入れた上で、解くことを強いられるという経験も、それなりに意味のあることで、自分の力量に見合った問題であるかぎりで、ある種の「責任」(おや、こんなところにこんな言葉が!)は果たすことができますし、果たせなかった場合でもまあオトシマエは(力量に見合ったかたちで)とらされますので、とりあえず次の出発はできるように思いますが、できたのかなあ。
イラクに行った三人はそれぞれに、一見すると、ぼくなんかとは比べ物にならないような、なかなか大変な状況に置かれているわけで、とりあえず、なんとか、なんとか、耐えるというか、いろいろ考えたり、無理には考えなかったりしながら、なんとか、なんとか・・・。
メディアの中に身を置いてしまうと、とても対処しようのない問題に見えるだろうけれど、でも結局、よく見ると、身の回りで具体的になっていることは具体的に対応するしかない問題になっているはずで、おそらく、ですが。だからあの三人にはなんとか、この状況をのりきってもらって、なんとか、つぎの、しかし、いまはとりあえず、腹が減ったら、なるべくうまい飯を食ってほしいです。
話しが流れてしまいましたが、いま気になっているのは、そういうことで、だからまあいいか。
・私信その2

それにしても不思議な理屈だなあ。それじゃあ、警察にかかわる費用はまず犯罪
者から必要経費を取れ、ということになる。ま、未来世紀ブラジルではじっさい
にそうだったわけだが。

陰鬱になるよな。ほんとに。なんでこんなことになったんだろう。おれたちはどこで間違ったんだろう。