寛容

東京都教育委員会は25日、都立高校の卒業・入学式で「君が代」斉唱時に起立しない生徒がいた学級の担任ら57人について、生徒への指導が不足していたとして厳重注意などの指導をすると発表した

ふう。
今年の授業でロックを読むことにしたのは、これがあったから。この問題(寛容)は、すくなくともその表現形態としては、第一義的には、公的礼拝の問題であった。つまり信仰の実践の外的な表現を世俗権力が「炎と鎖」によって強制することがいかに不当であるかを論証するところにロックのあの論文のポイントはあった。
そのさいの戦略として、今日われわれが日本語で内面と呼ぶ領域(ロックはconscienceはじめそれを様々なことばで表現している)を確定して、その領域をまずは世俗権力の支配のおよばぬ範囲に置き、さらに礼拝(culte)自体を(内的な)信仰の表現形式(le culte exterieur ou les rites)とすることで、教会権力からも独立させるという戦略をとった。そのことの可否については、とりあえずここでは問題としない。(ちなみにその問題をきわめて深い水準で扱ったものとして木崎喜代治『信仰の運命--フランス・プロテスタントの歴史』岩波. この問題をあつかったおそらく最も重要な書物。)

信仰の運命―フランス・プロテスタントの歴史

信仰の運命―フランス・プロテスタントの歴史

いずれにせよ、外的な表現形式の強制が内面(良心)の変更にはつながらない、という定式化を行うことで、中世的な宗教秩序から明確な切断を行ったわけである。
今回の問題は、世俗の権力が外的な礼拝形式(脱帽および敬礼)を拘束することによって、内面(良心)の領域に影響を及ぼそうとしている、ということになるのだが、はたしてその権力はいかなる権力なのかということが問題になる。ロックはすでに宗教的迫害の条件はつねに世俗権力がある一方の宗教集団に肩入れした時に始まることを指摘しており、それゆえの世俗権力と教会との分離が彼にとって重要になる。権力の世俗化の徹底が、こんにちリベラリストのチャンピョンたるロックからの回答であり、それが寛容ということなのだ。世俗権力は法と刑罰(恐怖)のみよってしかその権力を行使し得ず、その限りでその範囲は人身personneと財産biens exterieursに限定される。(問題はそれが徹底した個人主義をもたらすことになる、ということなのだが、それもここではふれない。この問題については多くの論者が語っており、そのブックガイドとしてRobert Castel et Claudine Haroche, Propriete privee, propriete sociale, propriete de soi, Fayard,2001, バリバールが授業で必読文献にしたというと訳す気になるひともいるだろうか。)
Propiedad Privada, Propiedad Social, Propiedad de Si Mismo

Propiedad Privada, Propiedad Social, Propiedad de Si Mismo

今回の東京都の措置はその範囲を(ロック的に言うと)逸脱している可能性が高く、世俗権力が自らの世俗性そのものを危うくしている可能性がある。フランス革命における世俗権力の(一時的にではあれ)教会に対する圧倒的な勝利は、ロック的切断を前提にした上で、革命政府が公共の平安のより中立的な保護者としての地位を獲得したことに依拠していたはずなのだ。(ただし革命政府のその語の道のりは、Mona Ozufらの研究を参照。すなわち世俗権力はその母体である宗教的権力の誘惑を拒みきれない。)
おそらく気がついていないだろうが、この道は権力の脱世俗化であり、語の本来の意味における宗教化へとつながる可能性が非常に高い。きわめて前近代的な事態であるが、しかしそうなのだ。
さらに皮肉なことがある。ロックはその禁欲的な内/外の分割によって、いわゆる福祉国家の対象であるところの生存権をその世俗権力の外側においた。彼の国家はそれゆえの夜警国家であり、逆に、フランス語で福祉国家がEtat providence、摂理の国家というキリスト教的色彩の強い表現を得たのはそれゆえ、なのである。おそらく自らの信じるところによればウルトラ自由主義者であるはずの、東京都知事氏は奇妙なことにロック的に言うならば、かつて宗教権力が不当にみずからの管轄としていた領域をふたたび支配しようとしており(ようは絶対王政)、その限りで彼は福祉国家の子供であり、美濃部都政の裏返った子供なのである。(そしてわが首相氏の靖国神社への奇妙な固執もそのこととおそらく無縁ではない。)
いわゆるネオ・リベラリズムが、「ネオ」であるゆえんは、福祉国家以後のリベラリズムであったのだが、その宗教性ゆえに福祉国家以上に福祉国家的な、奇妙な国家となり、福祉国家の否定ではなく、むしろ17世紀におけるポリス的国家のより徹底した(もちろん再編を通じた)再現である。Policeの権力は福祉国家として構成されるさまざまな諸制度の萌芽的形態であったことをここでは強く想起すべきであり、(フーコーも指摘したように)絶対王政を批判し、夜警国家を奉じたロックや(アガンベンのような中途半端でない裸の個人主義を提出した)ホッブスもまた、こうしたpolice的国家への理論的抵抗という側面を持っている。
http://d.hatena.ne.jp/yeuxqui/20040419
に書いたことはべつの側面から言うとこう言うことになる。どうだろうか>きしくん

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