立身出世のひとがしんどそうなのは、それを実現するための「中身」はなんでもよいということになり、結果として、具体的に手に入るのは意味のないもの、ということになるからだ(おそらく)。手に入れてみたけれど、これは、あれじゃなかった。手に入れることに意味はあるが、手に入れたものには意味がない。
二者関係がまずいのは、すぐに「われわれ」という地点に舞い戻ってしまうから。エディプスの物語に意味があるとすると、そこには殺人という和解不可能な断絶が織り込まれており、そのかぎりで、想像のわれわれ、という甘い生活への回路を遮断する物語であること。
立身出世の物語は自己を実現する物語であり、そのかぎりで誰か(他者と言ってよいか?あるいは社会と言ってよいか?)の承認を必要とする。価値あるものが存在することを要求する。まさに自分の事業がその価値あるものであらねばならないのだが、立身出世が「自己」の設立の物語であるかぎりで、価値あるものとされねばらないものは、あくまで手段にすぎない。みずからがみずからを裏切る。
(唐突だが)立身出世の物語は二者関係のなかにあり、二者関係の物語を必要とする。
三者関係は二者関係に1を加えたものでなく、視点そのものの移動である。二者関係の物語の主人公になることはもう不可能であるという事実からの出発。
結果的に、立身出世物語の主人公はあらゆるものを犠牲にする。だが承認のための誰かを捨て去るあるいは殺しさることに、彼は耐えられない。彼は自らのうちにあらゆるものを取り込もうとする。「生命」(と書いて「いのち」と読ませたりして)「全体」「永遠」「和解」「超越」そして「崇高」。彼らはこのような自他の区別を飲み込む暗闇を愛好する。彼らにとってこれらは言葉は変われど最終的には同じものである。
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きみはしかし、本当は修復不可能な行為を行ってしまったのだ。立身出世を目指したとしても、それは君に何も与えない、それはなにも解決しないし、何も修復しない。

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この程度のことが言えるかぎりで、エディプス・コンプレックスの物語にもまあそれなりの意味はある。

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補足:ちなみに「生命」などの代わりに、「人民」や「民衆」であってもよい。ぼくは保守思想家から多くを学んだが、それは民衆との安易な同一化から出発しないところ。彼らは民衆をさして「われわれ」という一人称複数を使うことはない。そのかぎりでmultitudeの物質性を認識しているのはむしろ彼らである。

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なんかしかし書きすぎだな。自制しよう。