追想

田舎で体操のコーチに会った。何歳になったと聞かれたので40の大台に乗りましたと答え、ふと気がついて先生はコーチしてくれたころ、何歳だったんですかと言うと、斜め上のほうを少しだけ睨んだあとで、今度は別のほうに視線を逸らして、うーん34,5ぐらいかなあ、と誰か別の人に向けていうように呟いた。

彼が指導し始めた途端に、たった1年で県のトップグループに入れるかどうかところまで上達した(といってもさらに上の地区大会では、ぼくの県の代表はまったく鼻も引っかけてもらえないようなそういう低いレベルのトップグループだったのだが)。
田舎できちんと指導できるひとはほとんどいない。それまでの自分たちの練習を思い出してみても、たんに好き勝手に遊んでいるだけだった。せいぜい20代前半ぐらいまでの暇をもてあました「先輩」と称する人が、たまにやって来ては女子たちと適当にくっちゃべりながら(あるいはこっちが目的だったのだろうか)、宙返りはこうするんじゃ、けあがりはこうじゃ(いや蹴上がりすらできなかったのだ)、バク転はこうじゃと、自慢してるんだか遊んでるんだかわからないような「指導」がせいぜいであったし、県内のほかの学校でも、野球以外のいわゆるマイナーな種目では事情はよく似たようなものだったろう。

彼らと比べると先生はずいぶんと年を取った、今の僕の感覚だと50代でもおかしくないようなおじさんのような気がしていた。

教育に意味があるか、ないかということでいえば、スポーツに限って言えば、きちんとした指導者がいるかいないかは、すくなくとぼくの経験からすると、才能のないものにとって非常に大きな違いを生みだすものとなるだろうということは実感としてよく分かる。たぶん飛び抜けた才能ないしは能力の持ち主には、あるいはそうした指導者は必要ないのかもしれない。だが、そうでない者にとっては、「教育」あるいは「訓練」は、そうした教育や訓練が自明のものとして存在している世界の者たちが考えている以上に、大きな差を生みだすのではないだろうか。

というよりもそもそも教育や訓練というものはそういうものだといえば、そういうものだ。

スポーツで進学できるようなそんなレベルにはとうてい到達しないような、そんな水準ではあったけれど(たぶんそれにはなによりも「才能」が必要とされるのだろう)、それでもまったく何か新しい世界をみることができたという記憶だけはいまも鮮烈に残っている。それは彼がいなければ、まったく経験することのできなかったものだ。ある種の人びとが自明であると考えているものは、かならずしもそうでもない。

彼はまだあのモッズのスーツを着たりするんだろうか。