しかし

なぜ、手を出し、口を出してしまうのか、なぜ臭いものがあると臭いをかいでしまうのか。

結局、すべては準備万端に整わないからだ。いやいや気がついたときには全員が墓の中で、結局時間の進み方というべきが、事態の進行と言うべきか、それはこっちを待ってはくれないものだから、不確かな足下を自覚しながら、すっころぶかもしれないと思いつつ一歩を踏み出さねばならないことばかりだからだ。おれの人生は。

一歩前に足を出すと風景が変わるなどと書くと多少はすかした感じになるか。ただマキャヴェリのように前髪をつかめとかいうマッチョさはない。なるべく遅れずについて行こうと思うだけだ。

どうやればしかし一歩踏み出せるのか、どうやればその一歩が間違ったときに、立ち上がれないかたちでなく、比較的きちんと後戻りできるかたちで、前に進めるのか。ともかく方針に自覚的であること。しかし自分が何をやっているかぐらい、自分では分かりにくいものはない。ないがしかしこれはしょうがない。とりあえず確からしいことを手がかりにするしかない。これはしかしちとポパー流だな。一般論にすればだいたいはしかしそうなるか。言うはやすしきよし

ともかく大事なのは、口だけでなく、手と足と体を動かすことだろうか。手と足と体を動かしていると、ひとりではないことが多い。口だけだとひとりになってしまうというべきか。

あとは他人がどう考えているか、については距離を取ること。実は・・・こうなんだ。あいつは・・・なんだ。という真実あるいは真相には距離を取るということ。どうしても人は他人を「読もう」としてしまう。臨床心理的なものへの誤解もおそらくはこの辺にある。他人を「読む」ための、他人の心(あるいは真意)を読むための道具だと誤解されているのだ。

臨床的なものは、おそらくそういった真意を読むための、実は・・・と言うための何かではない。あるいはそのようなプレゼンテーションがなされているかもしれないけれど、あれはしかしよく見ると、制度的であったり、社会的であったり、そういった種類のものだ。どのように社会福祉事務所と関わるか。どのように警察と関わり、あるいは関わらず、どのように医者とかかわり、あるいは関わらないのか。おそらくそのなかとひとつとして、患者と、言ってはいけないのか、相談者とかいうんかな、そうした相手との関わりがあるとさえ思うほどだ。そうした社会的な紐帯の薄いカウンセラーはたぶん仕事のしようがない。社会的な紐帯ではないな、むしろ法=制度と言うべきだな。見ているとそうした何らかの意味でのプロフェッショナルないしは専門的な領域との関係、法というフォーマルな領域との関係が肝になっているような印象を受けさえする。いや、プロとそうでない臨床愛好家たちの一群を分けているのは、むしろこうした関係性であり、その関係性を背景とした判断基準ないしは判断のあり方の違いであるように思う。
その限りでフーコーは正しいことを言っているな。評価がいま逆側から来てしまっているけれど。

やはりあれは、「問題」を「社会」といってよいのか、なんなのか、その中に位置づけ直すための技術の総体であると捉えなおしたほうがよくはないか。
そこで問題になるのは、真実ではなく、本当は・・ではなく、実は・・・でもない。もうすこし表面的であり、具体的であり、物質的であり、もし技法があるとすると、そういった水準にとどまるための技法ではないか。
某氏は、理系的な訓練を受けた人でないとよい臨床家にはなれないとすらいう。おそらくそのときイメージされているのは、裏側(実は・・・)に踏み込まないためのフォーマルなものへの執着あるいは歯止めのようなものか・・・。


理系的であることが数学的であることとされてしまっているのは、それはそうなんだが、ミスリーディングな感じもする。多くの場合あれは部分性・具体性・モノ性のとらえ方の違いではないかというかんじもするから、そもそも文・理というような分け方が不適切な場合にまで、それを適用しているから混乱するのかもしれない。そこで分けて意味があるのはあるいは大学入学ぐらいまでだろうか。


とりあえず全体的ななにかへの距離の取り方は、なにか有効な指標にはなるのではないか。


どうもぼくはそのような意味では理系的ではない感じがする。以前はどちらかといえば理系的なような気がしていたのだけれど。

まあどのみち二分法自体がナンセンスか。

手と足と体を動かしているときは、やはり往々にして頭や目はついてきていないことが多い。だからどこかで振り返らねばならないのだけれど、やはりdefinitiveなものにはならないだろうという感じもする。結局、不安に駆られながら手と足を動かす。でも、動かさないことには前に進まない。

さてさて仕事に戻りますか。今日のノルマもあと少し。とりあえず前に進むには、手と足は動かさないとね。