このあいだ

臨床な人と話をしていて、どうしてメディアな人たちは、臨床臨床といいたがるのだろう。これほど根本的に矛盾することもないのにという話になった。

それはそれとして、このメディア的かつ臨床的というカップリングを両立しようとすることは、なにか非常に気持ちが悪い。べつに具体的にどうこうというのではないのだが。抜けられないトラップがそこにあるのに、なぜ自分からはまりにゆくのだろうという気持ち悪さだ。
まあ怖いのでだれかを道連れにしたいのかもしれないのだが。

メディア的なものというのも曖昧な表現ではあるのだが、まあ第四権力だ。インターネットというのも、その弊害(なのか?)を軽減するのか、深刻化するのかちょっとよく分からないところもある。

たぶん宗教というのはメディア的なものなのだろう。基本的に非物理的な遠隔力に依存するかぎりでだが(まあだからオカルトというほうがよいかもしれない)。たぶんその点である程度はメスメリズムとの比較は有効だろうという感じはする。

ただメスメルの時代との違いは、規模の拡大によって、「臨床」的水準との距離の拡大と、逆にその拡大そのものがむしろ親密化として受け止められるという矛盾した状況も同時に起こっていることだ。

おそらくはその辺に陰謀論の罠もあることはあるのだろう。

陰謀論はともかく、しかしこの臨床的なものへの欲望の増大は、それがじっさいの臨床から遠いところでなされ、つまりはまったく関係がないものであるだけに、いったいその名前で登場しつつあるものはいったい何なのか、深刻な感じもする。

「被害」がもしあるとして、その多くは、臨床レベルであるような気もするのだが。よくわかんねえ。そうでもないような気もする。