ネオリベその他

職場のほうがちょっと一息。ただし来週に向けてまたいろいろとやらないことがかさんでいる。こういうときにはとかく関係のない本を読みがちであるので、魅力的なものほど遠ざけねばならない。と日記に書いておくこと。

本が買えないのでついついCDを買ってしまう。ゼミのテキスト用にVenturiのLearning from Las Vegasが10冊届き、ついでにCDも届く。
DanlindeoというのとJunior Boys。どちらも聞きやすくBGMとして正解。聞きながら授業のための関連書をすごい勢いで読む。ちなみにその授業は複数教員が入れ替わり立ち替わりひとつのテーマでしゃべるという最近よくあるタイプのもの。いろいろ考えるに臨床というジャンルをよく考えよ、ということかな、という気がしてきた。

テクノロジーというのは知識(科学)+行動・実現(〜精神+身体)みたいなものだというイメージなのだが、臨床という概念にも、ちょっとそういうところがある。どっちも専門家と称される者が、一般市民(?)に、あるいは一般社会において行う何かではあるのだが、大学入学者がひとつの世代で6割になるという状況をここに併せて考えると、じつはなにか新しい事態が起きつつあって、その解読の格子というか、概念の切り分けがなんか新たに必要なのではないかという感じがぼちぼちし始めている。広重徹を読み直すとなんかいいことがあるだろうか。

リレー講義は、昨日は東京から来てもらって、話をしてもらう。映像というのはしかし反則だなあ。たしかに本を読むよりは、何かを強烈に喚起する。ここから、しかしテクストを使ったり、実験をしたり、記号を操作したりすることで何か形式的に考えるという、別の能動性を刺激する必要があるはずなのだ。

しかしこういう人を呼んだりして多人数で授業するのは、コーディネートがそれなりに大変で、TAとか助手がいないと成り立たないところがあるが、あんましそういう配慮はないようだ。やってみて分かったのは、これは一種のイベントで、積み上げ型のイメージで授業を作ろうとすると、その意図と実現するものとのあいだに齟齬が起きるような気がする。

考えてみれば合併したせいで所属セクションが変わってしまい、担当授業が一新されてしまったわけで、準備がしんどい理由にもなってるなあ。

しかしイベント屋というのは考えてみれば昔とった杵柄だなあ(遠い目)。あそこでタイムテーブルの書き方とか覚えたが、いまの商売をするようになって、社会人になったというのに、ついぞ書いたことがないというのも変な話だ。

息をつく間もなく同じ部屋で自分の授業。あまりにも難しいという苦情が殺到しているのでまとめの授業をする。「(俗に言う)ネオリベ」=「福祉国家」ー「リベラリズム」(=つまり絶対王政)だというような話をしたのだが、何か状況が改善されたような感じはないままだった。講義というのはいっこうに上手くならない。適性がないのかもしれない。すげえ面白いらしい、きしどんの授業を見にいって勉強しとけばよかった。

さて月曜にはゼミでおれが発表(なんでだ?)なので、その準備がまた余分だ。

そうかventuriのReadingが始まるのだから、Irving Howeの本とか、途中で止まっている勉強を再開しないとまずいんだよな。