今日は
朝から学校にいたのに、1ページも本が読めなかった。
学生と卒論の話。その他、その他。しかし何で泣くかな。
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最後に職場復帰した同僚に呼び止められ話をした。あきれた。少しばかり体力が戻ってきたのか世間のことに目が向いたのはいいが、同報で送られてくる大量のお仕事メールに反応して、学内行政にいろいろ首を突っ込もうとしていたのだった。団塊のひとなのだがまったく雀百まで踊りを忘れない。しかも情報を適当に操作してあたかも自分が組織上のある種の権限を握っているかのような話をする。そういえばそういう人だった。こういうこけおどしをするから人間が安っぽくなる。よくできたものでそれは書き物にも反映している。もの悲しくなって、体力が戻ったのだったら、インフォーマルにでもいいからこの分校でゼミナールでも開いてみたらどうですか、ただでさえ授業は少ないし、学生は不満が溜まっていますよ。それに底の抜けたバケツに水を注いでもまったく意味ないのですからとこんこんと諭す。返事をするけど、すごく汎用性の高いモジュールの組み合わせだ。どういう会話にでも使うことができそうだ。うんうん頷いてはいるけれど、まるで目線が合わない。かわいそうではあるが、ぼくにはもうどうしようもない。
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6月3日はSOPを連れて集会に行った。おっちゃんも来ていて、二人で出席表に名前を書く。デモがあるかと思ったらなくて、ちょっと残念だった。会場は大きな市民ホールで最初椅子に座っていたが案の定SOPは早々に飽きしまいぐずってきた。おっちゃんがおもしろがってからかうから、今度は大声で騒ぎ出したので席を立ってフロアーに。大きなホールだったのでSOPはおもしろがって階段を登り降りる。登り降りる。登り降りる。窓から下を見ては車を指さして大好きな清掃車を見つけて大満足。
ぼくのような親子連れがほかにも何人か。なぜかみんな男親だ。ちょっと疲れ顔。土曜日だもんなあ。ぼくもあんな顔をしてるんだろうか。そうこうしているうちにじっと座っていることのできないおっちゃんも席を立って僕らのいるフロアーにやってくる。コーヒー飲もコーヒー。あんたもじっとしとらんなあ。SOPとかわらへんで。いや今週は忙しかったし庭いじりしてないねん。草枯れてきてるし。
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東京のほうではエライ先生たちがエライ講演をしたらしい。はあエライ先生の講演を拝聴したかったなあ。ぼくもいっしょうけんめい勉強して東京に行って、いつかあんな偉い先生になって立派な講演をしたいと思いました。
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デモしたかったなあ。
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それで今日は30分だけバスの中で本を読んだ。
半沢孝麿『近代日本のカトリシズム』みすず。天神茄子さんからのお題。岩下壮一の章をぱらりぱらり。
半沢による引用「一面我々の良心が完全でないということは有難いことで、これによって他人に対して寛容を持ち得るのである」
- 作者: 半沢孝麿
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ロックにせよ、ラボー=サンテチエンヌにせよ、良心の自由、信仰の自由は、(公的)礼拝の強制にたいする抵抗としてあらわれる。カントのいう従えしかし自由に議論せよという啓蒙の原理とは性格が異なる。
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礼拝の強制が問題となるのは異なる信仰の強制だからである。つまりぼくは何かを信仰している。
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何を信仰しているのだろうか。啓蒙なるものがカントのいうようなものであるなら、おそらくはそれよりも古くさいものだろう。世俗というものを信仰しているのだろうか。ではぼくは世俗性というものを守るためにたとえば職を賭したりするのだろうか。何という矛盾。
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ときどき、ときどきだが、カントには、大学の先生だなあと思うことがある。
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いちおうはぼくもそうなのだが。
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いったいなにを信じたいのだろう。
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おお、信仰薄き者よ!