おとつい

からmayakovはSOPをつれて実家に。しばしの独身生活。なんとなく人恋しい。なんということだ! そろそろやきがまわったか。

うのちんの写真を新聞で確認する。数年前の写真なのだが、いまとくらべるとやはり、あた*>)*OJM。おや、キーボードの調子がわるいな。

残念ながら、イベントの日に祖母の四十九日が重なってしまった。

叔父と祖母とは17しか年が離れていないことに気づく。祖母と祖父は駆け落ちのすえの結婚だったようだ。どうやらすでに叔父はおなかにいたらしい。なるほど、なれそめを聞いても恥ずかしがって教えてくれなかったはずだ。うふふと恥じらって笑った祖母の顔が浮かぶ。反対を押し切り、祖父も祖母も兄弟の誰よりも早くに結婚してしまった。

家の男たちを船の事故で失った祖母を、風邪を引いたとかで、たまたまその漁に出ず、生き残ることになった下の兄はそれは大事にしたそうだ。CHIZUは体が弱いからという口癖はじぶんが死ぬ直前まで続いた。年老い、傍目にも弱った状態にあってまだCHIZUが心配だと言い続けたらしい。さぞかし結婚には反対したのだろう。

そういう祖母の「体の弱さ」も、義務教育を終えすぐに働き始めた母にしてみると、私はそれに騙された、ということのようだったが。

CHIZUちゃんは私らと違ってお嬢さんやから、というのが母が最初に働き始めたころ、すでにそこで働いていたまかない(まかないはあれだな、栄養士だ)の女性たちに聞いた評判らしい。「体の弱い」祖母は残った家族に大事にされていたから、奉公に出されることはなかった。が、当の祖母は同世代の女の子たちが次々と奉公にだされてゆくのが物珍しくうらやましく、私もみなと同じように奉公がしたいと訴え、隣の村に女中奉公をすることにきまったが、彼女を連れて行った兄だか誰かが奉公先の主人と別の部屋で話している間に、積み上げられた洗濯物を見てこれは堪らないと、さっさと逃げ出してしまった。家に帰るとすでにもう彼女はそこ戻っていたそうだ。

祖父は当時としては背が高くなかなかハンサムだったというのは娘たちのひいき目かもしれないけれど、育ちがよかったことはたしかだ。わがままお嬢さんと零落の坊ちゃんの十代の恋とくれば、これはたしかにちょっとしたロマンスだったかもしれない。

SOPの入院が重なり、意識のある最後の時期に看病が十分にできなかったのは不可抗力とはいえ母にはわるいことをした。父もSOPと仲良くかかった風邪があとを引いたか、すこしつらそうだった。それでなくても田舎の葬式はつらい。

授業を終えてその足で飛び乗った電車と汽車を乗り継いで夜半に田舎に着くと、ビールを飲んで疲れはてて寝入ってしまった父の代わりに母が車で迎えにきていた。同じ汽車で着いた妹夫婦と一緒に祖母の元に向かう。父は朝から墓に敷き詰めるための砂利と砂、卒塔婆と灯籠の下に引く石を遠くの浜まで取りに行って疲れてしまったようだ。次の日の朝には祖母はもう骨になってしまう。なんとか間に合うことができた。お通夜のときにはすでに仏さんはお骨になっているというのが、この町のしきたりだ。なんでそんなにあわてて骨にしてしまうんと叔母は不満をくりかえす。祖母は病院で寝ていたときのように腰が曲がったままだった。なんとはなしに布団の上から腰をさすりながら、じょじょにもうろくしてゆく祖母が病院にはいるまで面倒をみた女たちの、そういうさいにはどうしてもおこってしまうちょっとした軋轢の、少し和解の儀式も混じったようなそうでもないような会話を聞く。あまり関わることのなかったせいでもっぱら聞き役にまわることになる。

そういえば、祖父は耳が遠く口数の少ない人であったし、父もすぐに横になって寝てしまうひとだったせいもあるのだろうか、子供の頃はこうやってしばしば女たちの会話を聞いていたことを思い出す。母方の家では祖父は出稼ぎをしていたし、叔父も田舎にいられなくなって別の町に出て行っていたから、女系の家ではあったのだ。そうでなくともいまだに大きなイベントでは男が座敷で酒を飲み、たばこを吸いながら卓を囲み、女は台所で別々に食べるような風習が残っているから、親戚が集まるような場面では、子供は女たちの周りでその会話を聞くことが多い。もっとも男たちにどんどん酒を注いで回るのはさっさと酔いつぶしたあと、自分らでゆっくり酒を飲むためでもあるのかもしれない。やはり女たちが机を囲んで楽しげに酒を飲みながら笑い語らっているような場面の記憶もある。いずれにせよ政治的には正しくないpolitically incorrectのだろうが。

いまはそうでもないが、女性たちが多くいる場所に混ざっているほうが、気が楽だった時期がある。類が友を呼ぶのか最近は俗に言うおばさんのような男たちが友人として残ることが多いこともあって、とくに男たちが苦手というわけでもないが。ただ公共的な議論への違和感はそんなところからきているのだろうか。こういう言い方も政治的には正しくないのかもしれないが。どのみちアンシャン・レジーム下の生活には違いないのだ。いずれにせよそういった習俗は消えねばならない。

女でも男でも公的にブログで(あるいはメーリングリストで?)議論をするがいい。それが近代というものに違いないのだ。それは自由であり解放でもある。その内容はどれほど間違っていようとその形式の価値は揺るがない。

それとも女たちが酒を飲んで楽しく語らっている場面はそれじたいまさに進みつつある解放のひとつの場面だったのだろうか。

話しているうちに、涙に暮れていた叔母にも少し笑顔がもどり、都会から転校してきた女の子からいい香りがするといって、女の子たちが周りを囲んでくんくんその香りをかいだというような話になった。そうこうしているうちに、ばあちゃんはこうやって自分が横になっているまわりで娘や孫がしている話を聞くのが好きだった、という話に戻って、またひとしきり涙に暮れる。