うむー

今日あんまり腹が立ったので授業中机を蹴り上げてしまった。これはよろしくなかったな。静かにはなったが、しかしなあ。むー。ちょっと疲れているんだろうか。島田紳介司会者、他人事じゃないなあ。育ちはいいはずなんだがなあ。

人を殺してもいいかわるいか、という議論が(本音のところでは)どうでもいいと思うのは、こういうときだ。あっと思ったときには手遅れだ。なんかそういう(やっちゃいけないことをやっちゃう)obsessionはあるのは確かだな。

軽卒、ってことで済むかどうか。まあなあ。しかし後の祭りではある。
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双子パパ氏から依頼されて、来年度の授業(「環境と人間」)の方向性を考える。教養の授業でよくあるような、顔見世興行的なやつだ。理系も文系も両方あり、というようなもので、できるだけ曖昧なものということだったので、次のようなものを書いておくったら、どうやらシラバスが欲しかったみたいで、済まなそうに書き直しのメールが来た。いや、わたしこそすみません。

こんなの
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「環境と人間」

環境は第三のものである。「それ」は第三のものである。それはわたしではなく、あなたでもない。わたしとあなたを考えたとき、その関係は第三のものであり、「われわれ」の環境を構成するが、わたしも、あなたも第三のものではない。

環境を考えることはこの第三のものを考えることである、と考えよう。つまり環境「と」人間であって、「環境」というひとりの登場人物を考えるのでは「ない」ということ。

第三のものであることは重要である。わたしとあなたは、つねに、すみやかに、「われわれ」へと拡大し、堕落する。フロイトによるエディプスの寓話を思い出そう。最初にあったのは殺人であり、融和不可能な、解消不可能な亀裂であり、もうそこには「われわれ」は存在しない。わたしのおかれた環境(「家族」)は、もうわたしの欲望と肥大する自我を満足させることのない環境であり、他者である。

この「他者」は第三のものであり、第二のものではない。「それ」はあなたには直接には見えない。「それ」は、見えている他者の裏面であり、横顔である。横顔が見えるのは、対面している他者が振返り、立ち去ろうとする瞬間であり、第二のものから第三のものになろうとする瞬間であり、あなたとの甘い関係を離れ、「社会」へとふたたび戻ろうとする瞬間である。

ときには熱に浮かされながら、語り合ったそのときが過ぎ去ろうとし、もういちどそれぞれの生活に戻ろうとする瞬間の、ふと見せた横顔、あなたから外された視線の、その先にある、いつも見えていながら、異質で見知らぬ「世界」はやはり第三のものである。

第三のもの見るには視線をそらさなければならない。鏡に映ったその横顔、光学が教えるように、光の屈折が届ける、ときに歪んだその形象はやはり第三のものである。その歪みと屈折、それこそが第三のものの姿を「正しく」教える。いや、あるいは顕微鏡を覗いてみようか。再構成された真実が第三のもののほんらいの姿である。

論理的に食い違うところがあるね。まあ、もうちょっとブラッシュ・アップしないと駄目だね。(ブログに書くと若干客観的に見れるんだよな。)