いっぱんに、本はその価値に比べれば安いと思う。こういうのは個人の金銭感覚だから、一般解はないのだけれど。ところで、
The Making of the English Working Class (Penguin History) by E.P. Thompson, 3060円にたいして、『イングランド労働者階級の形成』エドワード・P. トムスン, 21,000円(両方ともアマゾンで)。
うーん。理屈はわかるが、しかしものごとにはおのずと限界がある。邦訳は、ちょっと学生には買えない。普通の月給とり(経費で落とせない)にとっても、over 20,000というのは敷居が高いだろう。すると翻訳の方が(予算の使える)研究者向け、ということなのだろうか。それもなんか変な感じだ。しかも多くの研究者や図書館もこの翻訳を買うことはないという値段設定のようにも思う。つまり限られた層の研究者が買う、ということだろうか。

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いま、研究者の間では、(大学院生をも含め)お互いの競争はますます激しく、専門家としてクリアーしておくべきハードルは以前よりもいっそう高くなっている。よくもわるくも研究は高度になっている。その状況にキャッチアップし続けるために、ひとつの合理的な選択肢として脇目をふらないという選択がある。そしてそれはまたいっぽうで研究の精緻化にもつながる。ただし、こうしたことのすべてが、あるジャンルの研究の他分野からの(こういう言い方をしてよければ)価値判断、評価を困難にする。
いやほんとうは評価は可能なのだ。駄目な研究は駄目だ。なぜかそれははっきりとわかる。けれどそうした共通感覚に基づいた評価はさまざまな理由により忌避され、暗黙の不可侵条約がジャンルごとに形成される。これは貴族制の終焉であり、そのかぎりで大学の「民主化」でもある。もちろん不可侵条約は時に破棄されるが、その場合でも他領域の研究の価値判断がくだされることはない。端的にその領域の殲滅か、リソース(つまりポスト)の減少を目指した攻撃が行われるだけである。
研究者と呼ばれる者の読書量は、いまや驚くほど少ない。文科系、と呼ばれるジャンルの研究者においてすらそうである。読書はその専門分野の書物に限られ、そのかぎりでそれはかつての読書ではなく、仕事の一環であり、むしろ、仕事のための書類に目を通す、といった作業に近い。研究者とは本を読む人間ではなく、論文や本を「書く」人間である。いわゆる文学研究においてすら、読まずに書くことも、もはやべつに珍しいことではない。もちろん書かれたものからの推測だが。
とはいえ、これは、ある意味で、「実直」ないしは「篤実」と呼ばれたタイプの研究者がマジョリティとなりつつあることも意味している。その結果としての研究の高度化であり、洗練である。ただ、繰り返しになるが、他分野への口出しはきわめて困難となり、うかつな批判は、しばしば手痛いしっぺ返しとなってかえってくる。
知識人とよばれるタイプの研究者philosopheはいまは絶滅危惧種であり、原産地であるフランスですらその新しい個体の発見はますます少なくなっているということは、こうした状況と無関係ではない。

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いまや研究書が1万円を超えることは珍しくない。大家、と呼ばれる者の著作ですらそうである。無名の研究者の著作はさらに高価なものとなり、きわめて限定された領域で交換される私信に近づいてゆく。
これは進歩であり発展である。奇妙だがそうなのだ。

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ただここになにか見落とされていたものがあるとすれば、人文科学とはいったい何であり、現在、人文科学にたずさわり論文を生産することが、厳しい言い方をするとなぜ許されているのか、という問いである。そしてこの問いが実は大学「改革」とよばれるもののなかで、実は暗黙のうちに問われていたのようにぼくは思う。同じように見えても理系と文系とにたいして、「改革」のなかで投げかけられていた問いは、いささか質の異なったものであったように思う。ただしそれはすでに60年代の「改革」以来、(「文系」にたいしても)常に問われつづけてきた問いであり、今回まったく新たに問われたものではない。
しかし今までは、「知識人」の存在が(それ自体で)、この問いにたいするある種の答えになっており、皮肉にも、その問いかけ自体が意識されないままうやむやになった可能性がある。たとえそれが答えになっていなかったにせよ、それを問いかける側(だれだ?)にとって、「知識人」と呼ばれる者の存在が、ある種の対応にはなっていたのではないか。

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しかしもう、彼らは、数少ない例外を除いて、いない。そのことが今回の「改革」をいっそう「深刻」(だれにとって?文系にとって!)にしたことは間違いない。
残念ながらこの途方もない問いに答えようとした人文学者をぼくは知らない。かろうじてL'universite sans conditionのデリダが、しかしやや一般的にすぎるかたちで、問題にしただけだ。だがそれは届いていない。問いそのものが、おそらくは、問いとしてこの国では成立しなかったということだろう。
論文を生産するということはあるいは自明なことでよいのかもしれない。それが進歩であり発展であるのなら、そうだ。なぜ書くのか、という問いは問うてはいけない問題である可能性はある(それは端的に書くことを妨げる疑似問題かもしれない)。(社会において生産されたものとしての)知は自明のものとしておいてよいのかもしれない。かつてあったこのタイプの問いはたしかにいまや古くさく、無価値なもののように見える。ただそのときですらそれはもっぱら理系、科学者にたいしてその問いは向けられており、人文科学者は、無用であったかもしれないその問いを通過すらしていない。教養という答えはいうまでもないが、答えになっていない。その問いで誰も満足していないことは、今回も結局、教養部(語学および教員養成機関)の改革が反復されたことにはっきりと現れている。この問いをexpliciteに問いとして立てなければ、同じことはまたもういちど繰り返されるのではないだろうか。
けれど大学の、知性のリソースは無限にあるわけではない。

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ただもう、ぼくは大学という組織には絶望しているようだ。「改革」のなかでの自称左翼の振る舞いには心底幻滅した。だからといって非左翼が立派だったわけでもなく、つまりは大学の教官なるものが「総体として」、もはやその本来の意味でuniversiteを構成するようなものではないという明白な事実を繰り返し教え込まれた。
もともとが教員養成大学だからだろうか。あらあゆる機会が、立身出世の道具であり、こんかいもまた、見事にその論理が貫徹していた。
たしかにある時代の左翼運動というのもたしかにそうした自我の肥大を満足させるための機会にすぎなかったようにもみえる(少なくともある種の人々にとっては)。その論理はuniversiteの論理も、左翼の建前倫理をも、平気で(表向きは全く別のことに苦悩する振りをして)犠牲にできるというキャラクターを作り出した。
組織としての大学に絶望するしかない、というべきだろう。

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けれどやらんならんことは、やらんならん。しゃーない。