そぷたくん

日曜の夜、またもや39度近くの熱を出すが、至って元気に見えるのはある意味困ったものだ。さすがにmayakovは疲れているのではとの観察をしていたのだが。

昨日、医者に行くと喉が少し赤いとのこと。喉が弱点だから、雨が降って湿度が上がるのはこちらとしてはすこし安心する。

この間は目にゴミが入ってびっくりしたか、強くこすってしまったようで、少し傷がついているからと、直るまでプールは禁止されていた。直ったと思ったら夏風邪。四歳なのに、なかなかプールにいけないねえ。


前期はまだ終わってないのだが(まじめなんだよ。いやおれじゃなくて、職場が)、しかし気分的に終わった感が出てしまう。精神的に疲れたせいだな。

疲れた最大の原因は、先週末の前期の締めくくりに仲間にたいして行った現状の説明会と今後の展望。

35を過ぎたあたりから、政治ともいえないような、たんに世間ともいえぬような、変なことに関わってきた。ともかく教訓は現在形での真実などというものはない。それだけいうとなんだか社会構築主義みたいだけれど、あくまで現在形でのお話。同じ事件にたいしてはほんとうにいろいろな種類の説明を聞いた。そこで「真実」に迫ろうとするとかならず足を取られる。むろん、デマや、思いこみ、憶測などはあり、個別にはそれぞれ信頼度のようなものもあることはたしかだが、それとは別に、「真実」に迫ることが、実際にも「真実」に迫れるとは限らないと言うべきか、あるいは「真実」に迫ることが、置かれた立場において、もっとも「適切」な行為であるとは限らないというべきか。たぶん「性急」に真実に迫ろうとすることは、実践においてはしばしば弊害を伴う、ということが、もっとも近似的な表現だろうか。

現在形の、だよ。

それにたいして、文書の「真実」というものはある。

とはいえそれはあくまで文書の真実でしかないし、実生活においてはそうしたものが存在するケースは残念なことに?非常に稀である。そうだからこそ、本や資料を読んでいると安心できるのかもしれぬ。とりあえずのものであれ、それは手がかりになるのであって、おぼれる者にとっての藁以上のものではあるからだ。

真実は存在しない、と言いたいのではないのだよな。

アルチュセールは、イデオロギーと呼んだ。彼によれば、不在の因果関係について、その存在を信じるないしは捏造することが、イデオロギーの効果である。有り体にいえば藪の中ということにもなる。ともかく広松の44年草稿(段階のマルクス)批判との共通点は、この段階でのマルクスは不在の因果関係を夢想していたために、それに依拠することは、そこから誤った処方箋を引っ張り出すことになる、というものでもある。

結果としては、両者とも固有のかたちで、ある種の(科)学主義への偏向(偏愛?)を保持することになる。

たぶん言いたいのは、それとは少し違うのだ、ということ。ただし因果関係を見たように語る人にたいしては、どこかで留保しておくこと。じぶんも疑いつつ聞き置くこと。

それといざとなったらダッシュで介入(あるいは逃亡?)