頂き物。岸政彦『街の人生』勁草書房

街の人生

街の人生

著者の岸さん、いやきしどんからいただきました、あ、きしどんがくれました。ありがとう。
いろいろ心配してたんだけどw、すごくいい本だと思う。きしどんと会って、こういう本を読みたかったな、と思っていた本がああ、ここにあるなあという気がする。

相手が面白いこと言うと、競争心を出して、もっと面白いことを言わんと気が済まんひとやから、こんないかにも聞き上手みたいな相づち打ってるはずがなくて、どう考えても、まあもっとしゃべってるやろとは思うけど。

いい本だと思う。表紙も普通でいいし。21世紀だんもんね。ふつうはこういう感じになるよね。表紙は、きしどんが指定したみたいで、やっぱりなって思った。KS書房っぽくなかったから。KS書房って、頭文字にしてもあんまり意味ないけど。
さすがにむかしほど酷くはないけど、それでも学術書だからこんな感じだろ的ないっちょ上がり感が伝わってくるデザインがいまでも多い。たぶんそれってデザイナーのひとが感覚が古いはずないから、こういう感じにしないとダメだってって、デザイナーのほうが、消費者じゃないほう見て決めてるからなんだろうなってずっと思ってた。たぶん僕らの世代あたりだと、けっこうたくさんのひとがそう思ってるから、独立してできたような小さな出版社の本のほうが、そんなに金がかかってなくても魅力的な装丁の本が多い気がする。たとえそれはそれなりに「いっちょ上がり」の仕事であったとしても。

なかみもすごく「新しい」と思う。新しいって書いたけど、聞き取りを聞き取りとしてまとめた本だからそういう意味では、じつは類書はほかにも多い。ルポライターっていう仕事がまだ輝いているような感じがしていた頃は、こういうインタビュー集っていうのはたしかにあった。まあでもなんかが違うような気がするけど。かつてときめいていた猪瀬直樹にもそんな本があったはずだ。目を外に向けたら、スタッズ・ターケルがいるし、ずいぶんとあの本も売れたはずだけど、けど、いつしかそういう本はなかなか見つけにくくなった。

ブログの時代になって、ああって思ってことがあって、それはとても自由だって感じがしたのはいまでも覚えてる。

まあ大学の周りでずっと生きてきたし、ちょっとそういうところに近い人たちが手の届く範囲にいたこともあったから、出版も含めてだけど、そういう業界を遠くから眺めることも少しはできた。眺めるというか、耳に入れるというか、入るというか。しかしまあそれは、なんか窮屈で、窮屈だけじゃなくて、「ウゼー」って感じがすごくしていた。このブログの時代は、その「ウゼー」っていう感じなしにああ思いついたら文章書いていいんだっていう感じがすごく開放感があった。

結局忙しくなってしまって、このブログもいつしかあまり更新しなくなっちゃったけど、最初にブログを書いたときに、何にも言わないのにぱっと見つけてきたのがきしどんだった。あれ王様やろ!って言われて、あれ?って思ったのを覚えている。王様って言うのは、まあ自分のことをねずみ王様とか言ってたからだけど、まあ誰も読むと思ってなかったら、いい年して、ねずみだチューとか書いてたたんだな。ばかだなあ。

でもまあ書いたら速攻で見つかって、書いてるともなんとも言ってなかったから、そうか、読む人がいるんだ、そして書いたら誰かが勝手に見つけるんだっていうことをビックリしながら思った。

最近はマスメディアの評判が悪くて、まあぼくも意図的にdisってる。意図的にって言ってもまあ、おまえらいい加減にせえよって思うからなんだけど、そういうこととは別に、ぼくがあの業界を遠くの方から見ていて、あーあ、って思ってたことがやっぱりブログ時代になって、隠しようがない感じで明らかになってしまったということはあるだろうなって思う。

もちろんいまも大江健三郎の新作を読んでいて、これはもうほんとうにさすがにすばらしくて、いろいろ文句はあってもたしかに並のものではありませんという感じがヒシヒシとする。でも、なんかこう「あれ?」っていう人たちがいて、なんというかなんの普遍性も一般性もない、ただ出版村のひとですというだけのひとたちがなんだか出版村のご出身というだけで、いろいろ文章を書いて、何か普遍的だったり一般的だったりする顔をしてるなあって思ってた。まあコネだね。

べつにコネはまあコネで仕方ないけど、(この本の中にそういう話も出てくる)、けっきょくそれがいつの間にか、ごく当たり前というか、ある世代のひとだったら、同じようにやっつけ仕事するんでも、なんでこんな風なものになっちゃうんだろうっていう不思議な商品が結果としては少なからず出版される世界になって、「才能」とか、「感覚」とか、そんな大層なものでなくて、ちょっとづつ世代は違っても、同じ時代を共有してて、そんなかで当たり前に共有されてる、「ふつう」の感覚、べつにおれらヤンキーでもないし、「ミンカンのおっちゃん」でもないし(ああもうオッサンになってもうた)、いくらなんでも、「あれ」じゃなくて「これ」だよねっていう、当たり前の感覚が失われてる時代があったような気がする。
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ああこんなつまらない人間のつまらない話を金を出したひとに読ませるぐらいならA研で(だいたいは僕よりも若い)院生やODや、それこそきしどんたちが報告してるような話を、もっと多くのひとが読めるようになればいいのにってずっと思っていた。ずっとってまあ、なんかつまらないものを読んだとき。かならずしも研究書とか、論文にはかぎらないというか、むしろそれ以外のもの、つまりジャーナリズムと称するものを読んだときに、すごくそう思ったかもしれない。
A研っていうのは、いまはもうやってないけど(開店休業なのかな)、きしどんはじめ、市大の社会学の院のひとたちを中心にやっていた研究会だった。京都から大阪に、大阪というか堺だけど、まあ南河内にやってきて、そこで誘われて社会学者でもないのに、ずっとその研究会に出ていた。すごい面白かったから。だからほとんど休んでないと思う。で、たくさんの(多くはぼくよりも若い)友達ができた。ぼくはほんとうに多くのことを学ばせてもらったと思ってる。

いろんなひとがいたA研だけど、もちろんそこには「おさい」こと斉藤さんもいて、おさいが発表すると、みんな質問するんだけど、おさいが答えようとするまえになぜか岸どんが先にしゃべり始めて、車がエンストするときみたいにおさいがガックンとなって、ほんとにドリフのコントみたいだったんだけど、それが何度か続いて、かならずおさいが途中で切れるという感じだった。

ちょっとなんか懐かしくなってる。
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この聞き取りもそうだけど、活字になったものの背景にはほんとうに膨大な量のテープ起こしや、テープに記録されてなかった話があって、それはなんというか「面白い」ものであった。なぜ「面白い」のか、うまくはいえない。けど、それは別にとくに劇的でも、いかなる意味でも「特別」でもない友達の話を聞くことが、たとえばそれは相談であったり、愚痴だったりもするんだけど、でもなにかそこには「意味がある」ような感じがするひとは多いんじゃないだろうか。

変なたとえかもしれないけど、お葬式でそういうことがあることが多い気もする。

もちろんA研で聞いた話はもちろん相談や愚痴じゃなくて、そののち論文になったりするものだったんだけど、ああいいなあと思う要素というのは、あんがいと論文では消えてしまったりするのが残念だった。けど、この本にはそのときに、ああいいなあと思った何かが残ってる感じがする。

岸政彦は、かならずしも狭い意味でのブログ時代の書き手ではなくて、その少し前の時代からインターネットの世界でいろいろと書いたりしゃべったり暴れたりしていたし、社会学者としてはもうほんとうに伝統的な調査屋さんで、インタビューなのに、ひとの話を聞かないで、じぶんばっかり喋ってるみたいなことになったりもすることはあっても、まあみんなが百歩譲れば、そういう意味では職人さんだと思う。けど、それが岸どんの面白いところなんだけど、なんかそういう職人気質みたいな部分と「現代」というか時代の感覚みたいなものが同居していて、インターネットが開けた風穴のなかから、それをこじ開けてインターネットがつないだそのほかの「社会」に、ずかずかと押し入ってきた、そういう書き手だと思う。

前書きを読むと「日系南米人のゲイ、ニューハーフ、摂食障害の当事者、シングルマザーの風俗嬢、元ホームレスの普通の人生の記録」とある。

これだけよむと、なにか特殊なものであるかのような印象を一瞬持ってしまうかもしれない。でも、読めば、誰でもあっ、そうやったんか、って気がつくと思うんだな。つまり。それはほんとうに自分の隣にある生活の一コマで、耳さえ傾ければ、傾けた耳に語りかける気になりさえしてもらえれば――たぶんそこに職人技なのかなんなのか、そういうものがあると思う――、すぐそばにある「ふつう」の社会の出来事だってことがここではっきり描かれてると思う。A研でみつけたものもその「ふつう」だし、ブログの時代になって空いた風穴のおかげで、ぼくのような読者が読みたいなあって思ってことはきっとこれで、話す/書くことと聞く/読むことのあいだに本来あって欲しかったような関係が、その「ふつう」とのあいだに成立するような関係だったんだなって思う。

でもこの普通があんがいとできない。売れないからだって業界のひとはいうんだろうけど、違うんじゃないかなっていう直感はある。

これはまあ友人の本だし、もらった本やし、もうムッチャ宣伝としか言いようがないけれど、いやこの本が読めて、よかったなと思う。そしてこういう本を出すことにしたKS書房もよかったなと思うし、編集のひともえらかったなと思う。たくさんのひとに読んでもらえればいいなと思う。