アリンスキー・ノート3

ジャーナリズムと社会学

最初はドイツ人一家だった。四家族はどれも国籍が違っていた――ストックヤードに入れ替わり立ち替わり現れたいくつかの人種を代表する者たちだった。マヤウシュキエーネが息子とふたりでアメリカに渡ってきた当時、彼女の知っているかぎりでは、この地区にはリトアニア系移民の家族はほかに一軒しかなかった。その頃は労働者と言えば、ドイツ系ばかりだった。屠畜業を起こそうとした業者が外国から連れてきた熟練屠夫たちだった。その後、もっと安価な労働力が導入されると、ドイツ系移民はよそへ移っていった。次にやってきたのはアイルランド系移民だった――パッキンタウンがアイルランド系の独占する町であった時期が六年か八年続いた。現在でもここにアイルランド人の居住区がいくつかあって、組合や警察を牛耳っていたり、賄賂を取り立てたりするだけの力は残している。だが屠畜場で働いていたアイルランド系のほとんどは、次の賃金カットのあとに、どこかへ立ち去ってしまった。その後にボヘミヤ系、続いてポーランド系がやってきた……
アプトン・シンクレア『ジャングル』(大井浩二訳)1905

都市の急激な膨張と人口密度の上昇は衛生問題と犯罪問題をも同時に引き起こした。移民の多くは貧しい人びとであった。貧しさとは失うものがないということでもある。中産階級の夢が、その子供をより高度な教育機関へと進学させること、学歴を手に社会階層を直接に上昇することであるとすれば、貧困層の夢は、故郷を後に身ひとつで成功を目指すことである。鉄鎖を故郷にうち捨ててきた、失うものない人びとの貧しさこそが、工業都市の活力を支えたのであれば、貧困、犯罪、そして狂気は都市を構成する重要な要素となる。これらを都市の下層社会の姿を糧として成長してゆくことになるのが「ジャーナリズム」であり、犯罪小説そして推理小説である。セオドア・ルーズベルトは『マクルアーズ』『コスモポリタン』『エヴリバディズ』といった雑誌に掲載されるこうしたときに扇情的な実録記事を「マックレーキング(醜聞暴き)」と呼んで罵るだろう。だが、こうしたある時はお説教めいた道徳的教訓話、またあるときは扇情的な露悪趣味の入り交じる混雑物のなかから、しかしじょじょに都市はじぶんたちの自画像を描き出そうする。ニュー・ジャーナリズムと呼ばれる調査報道の新たな潮流が生まれるのはこの時期である。この小説が発表される少し前には、トマス・バーンズが犯罪者たちの世界を、ジェイコブ・リースがスラムの生活を、さらにはエリザベス・コクレーンがみずから患者となって潜り込んだ精神病院の悲惨な現状をそれぞれ告発している。シンクレアのこの小説もまた社会主義を奉じる新聞『理性への訴え』への連載がもとになっていた。こうした「都市のレポーター」による報告は、じょじょにフィクションからノンフィクションへ、さらには科学的調査へと近づいてゆくだろう。あらゆるものを飲み込みながらあたかも無秩序に膨張してゆくかのようにみえる、この都市という怪物をなんとかして統御するには、その真の姿を知る必要がある。
ミシシッピーで成長したロバート・エズラ・パークという、その名に旧約由来の名前を持つひとりの青年が、デューイのもとで哲学を学ぶ。大学を卒業した後、彼はミネアポリスデトロイトデンヴァー、ニューヨークそしてシカゴを転々としながら、ジャーナリストそして編集者などの仕事に就く。1898年、彼は決心し大学へと戻る。ハーヴァードではジェイムスに学び、一年後、ドイツのベルリンに渡り、ジンメルらの講義を受けるだろう。その後ハイデルベルグに移動し、博士論文「群衆と公衆」を書き上げたのち、1903年ハーヴァードに戻る。助講師というひどく曖昧なポジションにとどまりながら、彼は黒人公民権運動家、ブッカー・T・ワシントンの秘書を務めてもいる。いずれにせよユダヤ系にとってアカデミック・ポストの獲得はまだとりわけ狭い門をくぐる必要がある。その彼がシカゴに向かうのは1915年、トマスに誘われ、シカゴ大学社会学部のスタッフに加わるためである。そのとき彼はすでに50才であった。このジャーナリスト上がりの教師は、同僚とともにシカゴ学派と称される社会学の一大潮流を作り上げる。
シカゴ学派という名前を聞くと、われわれはふたつのイメージを頭に浮かべる。ひとつはその対象であり、都市、とりわけその国内外からの移民を中心とした下層民たちの調査というイメージであり、もうひとつは方法論上の特徴、たとえばさまざまなエスニックグループのなかに入り込み、ときには生活をともにしながら、その生活のさまざまな姿を調査するという参与観察という手法が頭に浮かぶ。彼とバージェスによる『科学としての社会学入門』(1921)そしてマッケンジーを加えた『都市』(1925)、トマスとズナニエツキの共著、『ヨーロッパとアメリカのポーランド農民』(1918―20)、アンダーソンの『浮浪者(ホーボー)と故郷喪失(ホームレスネス)について』(1923)、スラッシャー『ギャング シカゴにおける1313人のギャングの研究』、ランデスコ『シカゴの犯罪組織』(1929)、ショー『ジャック・ローラー ある非行少年の物語』(1930)クレッシャー『タクシー・ダンスホール』(1933)……。こうして主立ったものを挙げてゆくだけで、先に述べたひとつの共通したイメージが姿が浮かび上がってくるだろう。社会学はこうしてシカゴにおいて、ときにジャーナリズムと踵を接しながら、ひとつの科学として成長してゆくことになる。