アリンスキー・ノート下書き1

バラク・オバマの困難

……黒人コミュニティの組織化はまだ途方もない困難に直面している。多くのコミュニティでは自信が失われ、しかもそれには理由があるということがひとつ。シカゴは地域の組織化(コミュニティ・オーガナイジング)の発祥の地であり、かつての試みの残骸があちこち見られる。心ある人びとの多くがこうした失敗の苦い記憶をもち、そのなかで、改めて勇気を奮い起こすことに躊躇している。
 それに関係しているが、後で述べるように、都市部(インナー・シティ)から財政的資源、施設、子供たちの見本となる人物(ロール・モデル)そして仕事が逃げ出している。完全に崩壊したわけでない地域でさえ、いまや多くの家庭が共働きによって落ち着かない状況にある。伝統的に地域の組織化は女性によって支えられ、彼女たちは伝統とそして差別のためでもあったが、働いていない時間を利用して、ヴォランティア活動に参加してきたからだ。
 だがいまや黒人共同体(コミュニティ)の女性はフルタイム労働に従事し、しかも多くは母子家庭で、仕事と、子育てと家計のやりくりそして人並みの生活の維持などに身を裂かれ、ヴォランティア活動の余裕はなくなってしまっている。その上、黒人中産階級はじょじょに郊外へと逃げ始めている。つまり人びとはある地域(コミュニティ)で買い物をし、別の地域で働き、子供の学校もそれとは別の地域、さらには住んでいるところとは別の教会に通っている。こうした地理的な分散は、どの近隣共同体にとっても、投資をする上でも、共通の目標を作る上でも、現実的な問題になっている。
『アリンスキーのあと』(1990)

このように述べているのは、ニューヨークからこの知にやってきたシカゴの貧困地域の地域発展事業にかかわるひとりの青年である。この時期、戦前戦後を通じて、まずは製造業の発展、ついでサラリーマンを中心としたホワイトカラーの成長に支えられた、北部の経済発展の夢はじょじょに色あせようとしていた。政治的にはヴェトナム戦争の敗北がアメリカにとっての象徴的な転換点となるだろう。そして経済的には産業構造の転換、つまりゆっくりと進んだにせよ、製造業の衰退は、北部の製造業の労働者にとっては、いっそう深刻な影響をもたらす。
シカゴは産業都市であり、成長してゆく第二次産業とともに、人びとを飲み込むように拡大してきた。戦前にはヨーロッパからのカトリック系移民、つまりイタリア、アイルランド、さらにはポーランドを含めた東欧圏からの移民が、製鉄産業をはじめとした製造業に、あるいはまた都市の拡大につれて必要になってゆくさまざまなサーヴィス産業に流れ込んでいく。戦前において北部の産業の発展を支えたのは、これら白人の移民である。ドイツさらには日本との全面戦争が始まると、北部の町からも兵士が徴発されることになる。手薄になった人手の穴を埋めたのは、女性であり、そして南部から流れ込んできた黒人という国内移民であった。戦後、総力戦で荒廃したヨーロッパ、そしてアジア諸国を尻目に、アメリカは繁栄を謳歌する。経済恐慌によって一度は潰えたかに見えた無限の発展がふたたび可能であるように見えたのはこの時期である。アメリカは世界を支え、アメリカの製造業が世界の工場となる。工場はもはやプロレタリアートが窮乏に喘ぐ、搾取の場所というだけではない。戦争を経て自信をつけたアメリカの労働者たちは団結し、まっとうな市民として扱われるべく要求し、またその戦いに勝利する。製造業は階級上昇のための梯子でもあったのだ。
もうあなたはプロレタリアートという永遠の従属を強いられた貧者ではない。馬車の代わりに自動車を、メイドの代わりには電化製品を買えば、あなたも中産階級だ。冷蔵庫には食料品をたっぷりと入れよう。いやその冷蔵庫が置かれているのも、あなたがその手で買ったマイホームだ。雇用と賃金の安定は、ローンによる耐久消費財の購入を可能にしたのだ。さらには子供には学歴を買い与えよう。そうすればあなたの子供は製造現場ではなく、ネクタイを締めスーツを着て通勤電車に乗って都市の中心部で働くことだってできるのだ。こうした中産階級の夢はまずは多くの白人男性に広がり、女性もまたこの流れのなかに加わってゆく。戦後の好景気はさらに黒人をはじめとした有色人種にも、この上昇運動に加わることを許すだろう。かつて黒人が大学に行くことは不可能とまではいわないにせよ、夢のまた夢であった。けれどいつしかそれも実現可能な夢へと変わる。
だが、製鉄所で、自動車組立工場で、食肉産業で、汗を流してサラリーを手にし、子供に、学業にいそしむための時間を買い与えたそのとき、手に入れたマイホームで豊かな老後を送ろうとしたとき、それは起こった。70年代はアメリカにとっての転換点である。物流の中心でもあった、つまりは近代以前の都市の特徴でもある消費都市としての側面も兼ね備えていたシカゴは、デトロイト、あるいはピッツバーグといったより重工業への依存度が高かった都市の深刻さと比べれば、あるいはその影響は相対的にましであったと言うこともできるかもしれない。だからといってシカゴが例外であったとまではいうことはできない。ヴェトナム戦争後の二重の赤字と言われた、財政赤字貿易赤字はそれぞれがいわば合衆国の社会問題の象徴であった。財政赤字は福祉の削減を、貿易赤字は(とりわけ製造業における)雇用の削減、つまり失業そして就業の失敗を象徴することになるのだ。それは、これから社会という階梯を登ろうとしていた人びとにとっての運命あるいは困難である。北部の工場労働者とケネディ民主党を支えた、福祉国家アメリカは挫折を経験する。80年代はレーガン保守主義の時代である。アメリカの理想主義を支えたリベラルという言葉にはいつしか軽蔑の響きが加わるようになる。
それが冒頭で引用した文章を書いた若きバラク・オバマの困難であったのだ。