お米の話

ふだん、お米は近くの米屋に買いに行っている。幹線道路に面しているために、前にちょっとした駐車場になるスペースを作っている。売っている米の袋には、その店の名前が印刷してある。店に行くとときどき自分で玄米を持ち込んで、店にある機会で精米している客もいる。ちょっとした手数料を払うと店で買った米でなくてもやってくれるみたいだ。
そこではだいたい精米されていないササニシキを買う。買ってその場で精米してもらう。たんに銘柄と生産地やなんかの情報が書いてあるだけの素っ気ない袋に入っている。べつにたいした主義主張があってそうしているわけではないけれど、あまりべったりしていなくて、コワイ(堅め)の米が好きだからそうしている。どこかで寿司飯にはササニシキをつかうということを読んだか聞いたかしたからだろう。食べ比べたわけではないから、ほんとうに差があるのかどうかは分からないのだけれど。
しかしササニシキを継続的に買っているのは、どうやら近くにある寿司屋とぼくだけらしい。最近はSOPも大きくなってきたので、あまり買い物についてくることはなくなったが、小さい頃は、幹線道路を走る自動車を見たさに、お米を買いに行こうというといそいそとついてきて、米屋に着くと、米が精米される様子をじっと見ていた。そのあいだに米屋のおじさんやおばさんは、SOPに話しかけてくれるのだが、SOPが精米器に見とれたまま気のない様子で返事をしたりするとぼくが代わって答えるから、あれこれと話をするようにもなった。
最近はお子さんは来ないの?と残念なのか話のきっかけなのか、ある日、持ち込みの精米をするひとが終わるのを待っていると、いつものようにおじさんが話しかけてきた。たしか喉の調子が悪かったころだったから、そんな返事をしたような気もする。いつもより長い間待っていたから、通り一遍の会話では間が持たなくなって、ふとそういえばここで売っている米のパッケージにはお店の名前が書いてあるオリジナルですねと、ちょっとしたお世辞のつもりでそういうことを言うと、おじさんは、いや別にここにあるのは、小売りにだすわけやないから、ほんとうは量り売りでやりたいんやけどね、とこちらの思っていた通り一遍の会話の返事とは違うことを言った。ああそういえばむかし外国にいたときに、アフリカのひと向けの店があって、そこでは白いのや赤いのや、いろんな種類の穀物や豆類が量り売りで売ってましたよ。そういえばあれはなんとなく楽しい感じでしたね。たしかベルヴィルの近くだったと思うけれど、アフリカ系の人が多く住む地域があって、そこで豆やら穀物やらを買っていたことを思い出した。こうやっていろんな種類の米を置いているんですから、大きなズタ袋かなんかに「***産コシヒカリ」とか書いて量り売りをしたら、なんだか楽しいでしょうねというと、まあそういう商売は大阪では無理やな、東京やったらできるかもしれんけどなとニベもないこと言う。まあ法律の問題もあるんやけどな。解決でけへんわけではないけど。
大阪では無理ですか。
無理やな。この辺のひとはイラチやからな。わしもできたらそうしたいけど、むりや。
いうまでもないけれど「イラチ」はせっかちという意味だ。もちろんこの辺のひとはそう単純に「せっかち」ではないし、せっかちだから商売がうまくいかないというわけでもない。おそらくおじさんもそれは知ってはいる。だから、この「イラチ」は気ぜわしくはあるが、愛すべき人物であるという、単純に批判するのではなく、そこにおかしみを付け加えるユーモラスな効果をもった単語ではもうない。それはおそらくはうすうすとその意味を知りながら、たがいにそのことに触れないようにすることで、犠牲にしてきた何かに蓋をするための言葉だ。あるいは、それはこの町がいまの姿をとるために犠牲にした何かの残骸だ。
そんな話をしているあいだにもぼくのまえで精米をしていたふたりのひとが、会話に加わることなく出て行った。