SOPの

幼稚園は土曜日に終わったが、大学はまだまだ続く。なにかしら釈然としない。まあこういうことは往々にして上が言うからということが口実になりがちではあるのだが、どうもほんとうに文科省がうるさいらしい。授業日数を確保せよとのお達しが厳しく、厳しくというか日数を何日と指定するものだから、それを果たそうとすると、8月になってもまだ授業があるということになっている。
たしかに放っておくとおじいさんたちが「フリーソフト(グーグルやスカイプ)」を使って遠隔授業するけど大学として認可せよとか言い出したりするので、たしかに規制は大事、こういうのに睨みをきかせてそれを却下するのは本当に大事なのだが、授業日数まであれこれいうのは実感としてやりすぎであろうと思う。なぜというに直接教育の質に直結するわけではあるまい、と思うからということもあるが、ちょっとそれは箸の上げ下ろしじゃないのか。
とはいえ決まったことには従うよい子なので、粛々とやっておるわけだが、しかし、豚インフルの結果、授業日数の確保ために補講を入れる場所がもう土曜と日曜しかないという状況に見舞われ、月「火」「水」木金「火」「水」月火水木金土「木」というようなことになるとさすがのよい子も、逆効果じゃないの?と思わぬでもない。わたくしもまた田舎の秀才ではあったので、田舎の大学というのが往々にしてこうなることはたいへんによくわかるのであるが、まあしかしこれで日本がよくなるとえらいひとが考えているのだろうから、しかたないと日曜も学校へと向かう。

MRIをとってみたら、なんと前十時靱帯が完全に断裂しており、どうも再建手術をしないといけないなどと言われ、いよよ普通に歩けなくなってきて、買ったばかりの杖をついて教室にはいると、思ったよりも学生がたくさんいる。まあ俺は仕事だからしょうがないけど、三連休の中日の日曜に学校に来いとも言いにくいし、質問タイムにするから、質問があるやつはこい、これ以上は言えないなどといっておいたので、まあ数が少なければまったりとおしゃべりでもやって・・・と思っていたらあに図らんや20人ぐらいる。いちいち聞いていたら時間もたりないので、そういうこともあろうかと用意しておいた質問用紙を配って、10分ぐらいで書いてもらって回収。その場で回答する。これがしかしえらく大変で、こんなことなら普通に授業をやるんだったと後悔しながら、80分ぐらいしゃべりづめにしゃべったあと、残って個人的に質問してくる子がいたので、さらに30分ぐらい、これはまあざっくばらんにお話をする。どうも抽象的にしか分からないのだがという。つらつら聞くに高校ではやはり世界史をやってはおらず、高校の先生も地理だけやっておればいいというので、地理しかやっていないとのこと。いやだからアリバイ的に命令だけしても、現場は聞く耳持たないよねえという典型的な事態はやはり現在も普通に行われている(将軍!命令は実行不可能であります!)。まあしかしそういう状況であれば、こっちは普通の世界史に書いてあるようなこととは違う解釈で近代史をやっているわけだから、言われている範囲のことは、なんとか理解できるが、しかし、何か重要なメッセージが伝わっていないような気がするのも当たり前で、わりとカンのいい子だなあと思いながらいろいろにアドヴァイスする。

いやだから口を出すべきことなのか、口の出し方なのか、何かが微妙に間違ってはいないだろうかということもあるが、つまりこれが「教養」になっているわけで、こっちは下っ端なので、えらいひとに言われたことを言われたようにやるつもりの人生なのでべつにかまわんが、これがまあ専門教育重視の現在の姿なわけで、こういうことをご存じの上でいろいろと改革案もやっておられるのであろうと信じるし、ここに職業教育とやらを入れてみてもなるほどそれはかまわないが、命令だけすれば現場でうまく回るとは思わないで欲しいというか、こんなもの上手く回そうとしたら何年も時間がかかるに決まっているのだから、いっぺんやったら腹をくくってやってもらわないと、朝令暮改は賽の河原積みになるので注意されたし。>頭のいいエライひと。
まあ石積んで給料くれるならいくらでも積んでやるが、まあどっかで誰かが無理矢理ババを引かされて、生け贄の山羊に祭り上げられると思うし、そろそろそのタイミングは近づいていると思う。これは歴史のアマチュアではあるが、それなりに経験の積んだアマチュアの見立てなので、それなりに注意されたし。

そういえば今年学生に読ませてみたこのほんは大変によい本であった。

事実に基づいた経営―なぜ「当たり前」ができないのか?

事実に基づいた経営―なぜ「当たり前」ができないのか?

このなかにでてくる戦略重視の経営の失敗の話を、ソニーのそういえば戦略の好きな社長がいたなあと思い出しながら解説したのであった(改革案は上ではなく下から出したほうがよいそうですよ。でも、そんな気力はなくなりましたけどね。うふふ)。

まあしかしこれは大事な話で、近年、どうもこの国ではトップダウンというと俺が考えるからおまえが動けというふうに理解される傾向がある。そんなことをやったら、有能な奴から出て行くことになるから、コンサル地獄もどうもこのあたりの誤解から始まっているような気がしてならない。日本の企業なんかだと出世に時間がかかるから、頭の使えなくなったジジイが頭使って、トツゲキーと命令することになるだろうから、これはたしかにまずかろうという感じもする。

つまりは改革だ市場だと言ってる連中ほど、市場の力を信じてはいない社会主義者のスターリニストだという興味深い逆転。



ただいっぽうで、この本を読んだ学生たちにはあまりピンとこない話も多かったようなのは、たんに社会経験がないというだけではなく、彼・彼女らが知っている企業の現場とは底辺のバイトではあるので、そういうところから見ていると、なかなか腑に落ちないことも多いようだ。たしかにそれはそうかもしれない。まあそういう意味では一人で読まないということは、たとえ相手が学生であれ、なにかしら学ぶことは出てくる。

などなど。