2月が

終わってしまった。
二年続けての研究室の引っ越しもようやく終わったので、一瞬だけ開放感に浸ったもののしかし冷静に考えてみると失った時間は大きい。もっともこの時期は一年中で最も慌ただしい時期ではあるので、引っ越しがなかったところでどれほどのことができたか、ほんとのところはよくわからない。

ちょうど一年前の今頃、ホコリが立ちこめる中、途中まで梱包されたままの中途半端に大量の段ボールに取り巻かれていまもまだ続けている翻訳をやっていた。そんな変なことになったのは、混乱のなかで遅れに遅れていた梱包作業の順番がようやく巡ってきたのを見届けたところで、やれやれと思って別の部屋で仕事をしたりして戻ってきたら、なぜか次に梱包するはずの部屋の梱包が終わっており、しかも廊下まではみ出した段ボールのせいでこれ以上の作業を遂行をすることは困難になっていたからだ。
いや、まさに混乱の始まりそのものが、こうして作業員を奪い合ったりして、作業手順の前後が発生したからなのだ。それをやると、むかし倉庫番というゲームがあったけれど、ちょうどまったく同じ状況になる。つまり段ボールというのは場所を塞ぐので、手順よく作っては移動し、という作業を繰り返してゆかないと、先に段ボールだけ大量に作ってしまうと身動きが取れなくなってしまい、複雑な手順が必要になってしまう。

結果としては自分(たち)で自分(たち)の首を絞めたわけだが、思わずここしばらくの大学を象徴しているような気分になったものだ。

ともあれ、そうなってしまうとどこかでスペースができるまで塩漬けということになってしまう。しょうがないし、作業がどう混乱してゆくか、というかどのようなひとが、どのように状況を混乱させてゆくかをみるのが興味深くなってしまったために、段ボール(複数形)のなかで翻訳をすることになったのだった。感想としては上に書いた通り。

それから一年、ずっと翻訳だけをやっていた。一生のうちで一年ぐらいそういう年があってもいいかと思って、あえてそうしてみたのだが、やはり翻訳をやるには力不足であるなあとつくづくそう感じた。ひとつには多少は物知りであるような気がしていたのだけれど、やはり物知りの度合いが足りなかった。あとはやはり語学力だ。これはやはり全然足りない。あるタイミングで、これからは翻訳を主としてやってゆこうかしらなどと思う瞬間もあったのだけれど、まあそれは最終的には無理だなということがわかった。もうすこし真っ当に勉強をしておかないといけない。

あと思うことは翻訳というのはやはり独特の頭の使い方をするので、多少気をつけた方がよいというようなこともある。延々と因数分解をやっているのに近いような感じではないかという気もしたり、あるいは(仕事で)プログラムを組むというのはこういう感じなのかしらんとも思ったり。なにをどう気をつけるべきなのか、曰くいいがたいのだが、ともかくどれほど難しくてもある種の答えは存在するから、あてどのないまま頭をかきむしりたいような、いやむしろ考えている最中に、今考えていることとは別のことを考えるべきではないかなどという疑念というかこれもまた考えだが、それに襲われて、心というか思考というかそれが千々に乱れるような、そんな感じにはなかなかならない。

内容の面でもう少し考えたいところがあっても、どうしてもそこに集中しきれない部分も出てくる。内容面での軽重と、語学的に訳しやすい部分とそうでない部分とは必ずしも対応しないから、その都度頭を切り替えないといけないようなところもあって、あるいはそういった二重の部分が集中を妨げるのかもしれない。ただしこの部分は文法的なないしは語学的な障害が少なくなってしまえばある程度解決は可能であって、語学力が足らなかったという感想は、そういうことでもある。

しかしまあ理想は、やっぱりよくわかっていることを訳すにかぎるのだなあとまあそういう身も蓋もないところに落ち着く。

それと思ってもみなかった影響としては、翻訳というのはやはり日本語を書くという作業であるので、なんだかそれに満足してしまって日記を書く量が減ったということはある。どうもこの日記というのは日本語を書くことが最大の目的というか、そこから得られる最大の快楽がこの日本語を書くという行為なので、それが満たされてしまった結果、欲望が落ち着いてしまったのは、当たり前といえば当たり前なのだけれど、やってみて改めてわかったことではある。

などなど。

それにしても今回の引っ越しは(たしかにいろいろ条件も違うが)いまのところ大変にスムーズ。