ノート

ノートを取るという作法は、見て覚えたが、それを自覚的にノートだと思ってやるようになる以前から、結果的に同じことをやっていたのは、要するに外国語ができなかったので、レジュメを作ろうとすると大事な部分を日本語訳しないと、あとあと何やってるかわからず、結局ノートを取る(抜き書きをする)のと同じようなことをやっていた。そのうち最も近い人たちはどうも抜き書きを作っているようだと言うことに気がつき、意識してこれはノートだと思いつつやるようになった。最近は英語やフランス語をそのまま抜粋するようになっている。
もしそのことに気がつかなければ語学の能力が上がるにつれ、線を引いたり、ポスト・イットを貼って終わっていたかもしれない。たぶんこれは教師との距離が近かったから気がついたのだ思うが、今のようにやたらと大学院生がいるとどうしても教師との距離が遠くなっておろうし、そういう仕方で気がつくことはなくなっているだろうから、明示的に教えないと駄目なのだろう。

一回生二回生などのためにやるゼミでやっていたことは、当初は発表の仕方とレジュメというものが必要ということで、これは何らかのかたちでぼくが学生時代からやられていたことでもあった。ただそのうち気がついたことはレジュメの体裁は整うようになっても、それがほとんど何の意味も持たないことだ。結局、レジュメを作るためにその前段階として抜き書きのノートが必要だということを教えるようになり、もうそのノートをそのまま人に見せろ、という風に変えた。三回生四回生になって上がってくる連中にも結局同じことを言わないといけないし、卒論の指導でも同じことを言わないといけない。そういうことを教えられていないことは確実だ。
むろんときどき異様に記憶力のよい人もいて、そういう人は記憶で引用するからときどき間違えて引用する。だから引用間違いがあるとそれはそれで逆にすごいと思ってしまう。

あと大事なことは本を自由に選ばせないことだ。自由に選ぶととんでもないものを選んでくる。本の選び方を知らないし、こういう地方中堅大学はだいたい本屋も悪いし、図書館も悪い。

講義の試験で文章を書かせるときも、とりあえずオリジナルなことは書くなと口を酸っぱくして言ってもしかし、やはりどうしても感想文になる。これはもうあきらめないとしょうがない。卒論のレベルでようやく是正が可能であって、見本を見せても、感想文を書いて自分の考えを訴えるやつは後を絶たない。つまり講義というものは、いったい何をするところなのか、考え直さないといけない段階にきているということだろう。ただこの点では迷うところが多い。
教科書も(比較的)安価に手にはいるようになったのだから、もうlectureである必要はない(むしろ練習問題を解かせることを主にすればよい)とも思ういっぽう、いまだにそうしているところもあるように、しゃべったことの「筆写」をさせること、手を動かすということに意味があるかもしれないとも思う。この辺はまだ迷っている。

レトリックについては、すこし微妙だ。レトリックというと文章を飾ることだと思っている節があって、その弊害は大きい。同僚の文章を見てもそうだ。いや本屋で売られている本を見ても。だがいっぽうでそれとは違う水準のレトリックがあり、たとえば花田清輝の文章がそうだ。この意味でのレトリック、つまり文の構成のレベルでのレトリック能力が落ちている。しばしば牽強付会と批判されたり、無関係なものをつなげていると批判されるあれだ。ぼく自身がその意味では牽強付会型であり、かつしばしばやりすぎるからまたこれは申し訳ないのだが、なんというかそれにしても異なった水準のものを結びつける能力は低下している。形式化が苦手であるということだ(形式化は一種類しかないものと、複数可能なものがあるのではないか)。これはむしろ知識の運用能力に関わってくる問題であるから、この能力を鍛えないとなかなか上の学年にいったときに難しいことになる。

http://d.hatena.ne.jp/kenjiito/20060309/p1
を見て思い出したこと。

能力が落ちていると書いたが、むしろ我慢が足りなくなっていると書くべきかもしれない。つまりつながっているとは思えないAとBとが結びつけられているとき、むかしはそこで行間を読め、というようなことが言われ、つながらないのはつなげられないお前の頭が悪いという風潮であった。(やり過ぎであったかもしれないが。)しかし今では傾向としては逆になっているのではないか。いっぽうで、分の飾りとしてのレトリックは根強く残っており、抹消しても抹消しても復活してくる。他方で文の構造のレベルでのレトリックは忌避され、非常に平板な陳述が求められる。NHKの日本語で遊ぼうがウザイのは、まさにこういう作りをしているからだ。日本の建築がまたウザイのはこういう作りをしているからだ。mayakovによると日本語で遊ぼうのデザインの水準は相当に高く、というか単価の高いデザイナーを使っているようだが、つまり意匠のレベルでは相変わらず低くない水準にあっても、またかえってそのことがもの悲しい。旅回り一座はもの悲しいものだ。児童労働は結局もの悲しい。貧困の定義そのものだからだ。それは常に存在するからもの悲しい。誰にでも入れるわけではないNHKに入るような人間があんな本を読んでいるということが悲しい。

学問なんて、中身の骨格というか構造がわかれば、それが良いとか悪いとか、それは付け足しではなかったのか(それが行き過ぎた部分もあったとはいえ)。わかれば気が済むし、わからなければ気が済まない。まずはそれでいいではないか。

いつかこの数学の教科書はわからないと文句をいうやつが出てくる方に100ガバス

社会科学者と建築家の対談集を読んで、これがまたもの悲しかったが、最大の問題はそこに土木の人間がひとりもいないことだ。日本で都市計画というのはあれ事実上土木の領分ではないのか。集合住宅を構造的に規定しているのはあれ、土木の領分ではないのか。けんかする相手がまるで間違っているのではないか。建築家なんて、おまえらはデコレーションだけしとれ、俺らの用意した箱庭で遊べといわれ、心あるものはそれに抵抗するも予算の壁と経済・利便性、つまり世論と欲望とに負け続け、開き直った者ははいはいデコレーションだけします。だから景観とかウザイこと言わないでください。創造性を発露させてください、というこういうことになっているように見えるのだが、違うのか。そういう疑いがあるんだが、誰か教えてくれ。高山英華の考えていたことはうまくいってるのかいってないのか、いまどうなってるのか。

今住んでる団地はあまりぼくの年齢と変わらないから、日照時間は4時間より多い。

もっとガンガレ。

リンクもう一件。
http://d.hatena.ne.jp/fenestrae/20060307