つらつら考えるに、国語

というのは筋が悪いような気がしてきた。一昨日の日記のことなのだが。むしろそれよりは(前にも書いたが)外国語のほうがいいのではないだろうか。ということは教養課程は般教なんかなしにしてしまって、文系は外国語ばっかりやってる状態したほうがいいという意見で、ということは旧制高校(文科)復活ということになって、天野貞祐と同じ意見になってしまった。あれえ。保守反動の教養主義の馬鹿だよ。文部大臣でもないのに。

どうも副産物としてしか手に入らないようなものがあるという説がある。直接それを手に入れようとすると、必ず失敗するたぐいのものだ。青い鳥とか、自由とか。国語力とやらもそうかもしれないのは、ええとそういうことを書いた本の文章がひどいとか、まあひどいようだとか、ひどいかもしれないらしいとか、また****かよとか、独りよがりだよだとか、おまえもそうだとか、そうかもしれないとか、そういえば君には論文の書き方を教えておけばよかったとあるひとに言われたのだが、それは去年のことでつまり37にもなってそんなこと言われたとか、うすうすまずいかもしれないと思ってはいたけど、個性だと思っていたら、そうじゃなかったのかとか、ほらすでに主語と述語のつじつまが合わなくなってしまっているとか。そもそも文脈がおかしくなってるとか。

横文字の国の一部では、なんとかライティングとかいう授業があったりして、それをやると身の引き締まった文章が書けるようになるらしいのだが、それであの程度かよ、それより近頃の本の無意味に分厚いのをどうにかしてくれよといった憎まれ口はさておき、たしかに外国語で書く訓練としてそういうのをやるといいかもしれないと思わないではない。ただしこれを日本語でやってうまくいくか、ということを頭の中でシミュレーションすると、どうもあまりうまくいくような気がしない。どうやっても100kgのカマキリには勝てる気がしない。ええとそうではなく、まず自分でやれるかどうか心許ない。卒論の文章にけちをつけているそうじゃないか、という向きもあろうが、あれはやはり「論文」なるものを直しているの(というフィクション)であって、日本語の文章を直しているのではない。結果としては表現を直しているだけの場合が多いことは確かなのだが、本の読み方を見せてみる、見よう見まねで読ませてみる、書かせてみる、意味がわからないので話を聞いてみる、こういうことかと言い直してみる、というような手順を踏んで、結果として日本語の文章を直していることになっているだけであって、最初から日本語の文章を直すよということを宣言してそれを目標にやってもどうもうまくいかない気がする。むろん型は(それを知っている人は)教えられるだろうが(すまん、おれはしならない)、そういう型を教えることを目的にすると、いつしか無難な素材でやってしまうことになるが、その場合、気がつくと素材が無難なので自動的に型にはまった文章になっているだけであって、ちょっと問題が熱くなると、とたんに昔のままのトンチンカンな文章を書くことになってしまうようなことになる。シミュレーションとかいっても、しょせん想像をたくましくしているだけだから、案外うまくのかもしれないが。
むろん頭を冷やせば、ホットな話題をクールに整理して書くことができて万々歳だが、どうもやはり、日本語の表現に手を入れながら頭を冷やすよう促したり、論理の飛んでいるところを気づかせたりしているが、そのときお互いの了解は、いまここで問題としているのは「思考」であったり「意見」であったり、はたまた「思想」であったりするというフィクションであって、むろんそういったものは表現を通じてしか到達できないものなのだが、嘘でもその建前は置いておいた方がいいような気がするのだ。教える方はともかく、学生さんの方が、どうもそうでないとうまくいかないというか。
ということはたとえば「基盤科目」だとか「共通科目」だとか「基礎科目」だとかでは、かえってこれはやりにくいことになって、そういうのはむしろ卒論でやってくれというのは、筋の通った話かもしれない。

じゃあもっと初歩的な段階ではどうするのよ、ということになるのだが、それはむしろ外国語でやったほうがいいかもしれないわよ、ということになる。読むにせよ、書くにせよ。そんなわけで、ついつい旧制高校復活みたいな結論になってしまったわけだ。むろん専門によっては、外国語よりも数学とか、統計処理とか、プログラミングとか、論理式の操作とか、そういったものを優先させたほうがいいのかもしれない。(フィールドワーク技法やインタビューの方法論などは、やはり専門で学ぶべきものなのだろうか。それともある種の基盤技術なのだろうか。)つまり広い意味での記号操作(理解にせよ、表現にせよ)の訓練ということになって、前にも書いたのと同じような結論、というかむしろ正確には、同じような前提ないしは思いこみで話を進めているからそうなるのだろうが、いまや昔と違って「ナントカ学入門」とか「ナントカ学原理」などという講義単独で、なにか意味を持つのかといわれるとどうも意味がないような気がしてならない。勤務校は社会学心理学教育学というのが柱の大学で、もはや専門でも何でもない経済学を教職用に半期だけやるのと、思想史風なもの社会理論風なものという学問とはいえぬような変なものを半期という感じでやってきたせいでそう思うのかもしれない。が、それだけに折に触れこのことを考えてきたことはたしかで、何度考えても、思い切ってそんなアラカルト・メニューはすっぱりなくしてしまって、ある種のメソッドというか方法として、もっと割り切って言えば「技術」として理解される類のものに集中した方がいいという結論に近づくことになるのだった。

学問の専門分化というものを前提に、教養教育ないしは基盤教育のようなものを考えるとどうもそうならざるを得ないような気がするのだなあ。考えるというのはこれは一種の技術で、しばしば「悩む」とか、それはとは逆に「答えを出す」という行為と混同されているのだが、いろいろと具体的な行為(ページをめくる、手を動かす、本屋に行く、夢を見てみる等々)を伴った活動であるようには思う。
ただ多くの技術がそうであるように、この場合もそうした技術はやっかいなことに「結果として」身に付くことが多いのではないか、ということなのだが。
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結局そうなると、読み書きそろばんの、しのたまわくになって、しかしそういう旧態依然としたカリキュラム(講義・購読・演習)こそが、耐用年数が過ぎたという理由で廃止されたのであれば、これもしょせんは都合のいい学生と環境を前提にした、絵に描いた餅ということか。たとえ現行のカリキュラムがファミレスのメニューのように見えたところで、かつてよりよほど前進しているのであり、よほど有用性の高いものであると考えるべきなのだろうか。

国語力を鍛えるには外国語をやろうというのはそんなに悪い話でもないと思うのだけれどね。すくなくとも大学レベルであれば。日本語の読解、作文については変な癖がついているから、それを矯正するのであれば、むしろ、ということなのだけれど。

それにしても金曜のゼミ紹介はどうしよう。