てなことを

書いて一日経ってみると、やっぱりどうも自分のアンテナの張り方が鈍っていたような気がしてきた。やっぱり気がついている人は気がついているものなあ。人のせいにしたらあかん。
もとより自分の語学力で中東情勢について人様にどうこう説明できるほどの知識を手にするまでに投下せんならん時間と労力を考えると、授業が終わっていないいま、本業に支障なくそれができる状態にはない。だがしかしこれほどの事件だ。何が起こっているのかさえ知っておけば、そんなにびっくりすることはなかったのだし、その程度のことであれば、さすがに人様に勉強せいと説教している身の上なのだから、やろうと思えば支障のない範囲でできたはずだ。
そのことについては悔いが残る。

しかし何日か前のbewaadさんのトピックではないが、社会が複雑になるということは、個々人のレベルで昨日のぼくのような「寝耳に水」という経験に晒される確率も高くなることを意味する。
(そういったものがとりあえずあるとして)社会というものが、その複雑さ(これも曖昧な概念だが)に見合った、相応の安定化の機能を同時に備えているのであれば、間断なく起きるそうした「寝耳の水」も社会全体としてはそれなりに相対化されてゆくことになるのだろう。
おそらく中東とやりとりのある企業は当然、石油価格の上昇を見据え、それなりのヘッジをすでに行っているはずだし、そういう意味では、今回の事件も、ある種の専門家にとっては「織り込み済み」のことではあろう。そのかぎりでこうしたショックも、社会全体をもし擬人化することが許されれば、彼にとってはそれほどうろたえる必要のあることではない。こうした種類の安定化はむしろ社会の複雑化の恩恵ですらある。

社会全体の擬人化というのはしかしやや強すぎる表現だろうが、いっぽうで擬人化された「社会」にとって必ずしも致命的な事件ではなくとも、個体にとっては、ただひたすら運命にもてあそばれ続ける感覚がかつてよりも増大しているように感じられるのではないか。どこかで大きな事件が起き、それにたいし黙って事変に処する暇もなく、ただうろたえているあいだにその事件は収拾し解決されてしまう。これを昔の人は疎外と称したのだろうが、だとすると、昨日ぼくが感じたのは昔懐かしい、あの「疎外」の感覚だったのだろうか。世界、あるいは社会(どちらだろう?)との、あると信じていたつながりが、冷静に考えればそうであるように、かなりあやふやなものに過ぎないということを今更ながらに思い知った瞬間だったのだろうか。

まあそうなのだろうな。気恥ずかしいもんだ。

18世紀には人間は繊維だと考えられていた。ぼくはこの繊維の比喩がこの上なく好きだ。細胞という水溶液のなかに浸されたブロックの固まりとしての人間より、暗号のdecodingを繰り返し展開してゆく情報体としての人間よりも、にじり寄っていけばどんどんと輪郭が曖昧になってしまう繊維の比喩、その先端がつねに外に露出しているその比喩が好きだ。本来そう考えられていたように、外気温と湿度によって伸縮する目に見えぬほど細いのチューブというよりはむしろ、そのチューブを構成するさらに細かい単位としての繊維、つねにほつれ続け、いつしか切れてしまう粘着力の弱い蜘蛛の糸のようなものとしてそれはイメージされている。

何を書こうとしたんだったかな。

安保理常任理事国に入りたいのならば、一人ひとりがもっている、この蜘蛛の巣の範囲をもうすこし拡げておく、あるいは巣を張る方向を変えておく必要があるだろうとは思うが、そういうことを書くつもりではなかったはずだな。わすれてしまった。

中身のないことを書いてしまった。そうかはじめからなかったのかもな。
仕事に戻らねば。