授業も

始まってしまった。体が元に戻らないなあ。

ゼミは学生さんがFoucault, les anormauxを読みたいそうなので、それを読むことにしたのだが日本語訳(ちくま)は5000円以上(4800円だった。訂正)するのに、英語版Abnormalは1700円で買える。
Abnormal: Lectures At The College De France, 1974-1975
ペイパー・バックっていい仕組みだよなあ。
日本語版は、自分の学生時代のことを考えると、なんとなく教科書として指定しにくい。市場の大きさも違えば、大学や図書館をめぐる制度も違うので一概には比較できないのだが。

文庫本というのはわりといい制度なのだけれど岩波もしんどそうだ。あまり追いついていってない。ちくま文庫がかなりがんばってはいるが、どうしてもカバーしきれない。やはり英語で読めるように教育するしかないのだろうか。それはしかしおのれの20年前を振り返ってもなかなか敷居が高い。のだが結局英語版のほうを正式なテクストに。

教育効果もいまひとつよく分からないのだが、こればかりはよく分からないものなのだろう。

しかしペイパー・バックの概念が分かってもらえないから、日本の図書館(一部)はちょっと古いペイパー・バックの背中が割れたりすると、貴重書にしてしまって貸してくれなかったりする。フランスの本は新品でもすぐ崩壊する昔ながらのやつがまだあったりするから、図書館はかった瞬間に(あるいは研究室から図書館に配置されたときに)製本しないといけないのだけれど、そのまま置いておくから、あっというまに利用不可だ。
以前同僚が戦後の本だけれど、少し古くなった本を相互利用で借りて本をばらしてしまって問題になったそうで、そういうことがあったから注意してくださいと、ある(これも戦後の)本を相互利用で借りたときに、居丈高に言われたことがある。こっちもかちんときて、それはあんたらがマチガットルとやって少しもめたことがあった。その人は奇麗な装丁の本に、少しずらせば問題はないのに、何も考えずにバーコードのシールをベタリと貼るようなひとだったので、よけい腹が立ったのだ。
いやこっちだって古い革装の本を背表紙を折らないようにのぞき込むようにして読んだりもしているわけで、あんたこそもっと本を大事にしろという、そういう気持ちもあった。洋書で製本してないやつは、割れる。特に製本してなかったら、どんなに丁寧に読んでも割れるときは割れる。あんたらの本の保管の仕方がマチガットルとる、そういう問題をなんとかするのは利用者のほうじゃないし、アンタらがそういうことを知っといてもらわんと困ると、こうやっちゃったわけだ。まあよその図書館の本のことなのだからそういわれて司書のひとも困っただろうとおもうのだが、なんというかな、10年で利用不可とかになったら、何のための図書館で何のための司書なのかわからなくなる。そういう問題をこっちにしわ寄せされてもな、あんたらの領分のことなのだから、そっちで解決してくれとも思ったんだな、そんときは(まあ研究者も数が多いから、とんでもない使い方をするやつもいるんだろう)。

いちいち製本する金もなかったり、予算制約もあるんだろうが、こういうことをいちいち解決していっても移動でいなくなってまた新たにやり直しなのは地方の定めとはいえ日暮れて道遠い。国立とか私立の場合は移動がない分まだましなのだろうな。