ふと気がつくと

もう日本語の本すら読んでいない。体力が落ちていることもあろうが、時間の絶対量が少ない。会議でも皆さんどうしましょうか、としか言わないような者を管理職にしてトップダウンするとどうなるのだろう。将来構想委員会で、この案件(経営方針にかかわることがら)は組合にお任せしましょうというような最高管理職は、これからの大学はトップダウンが必要だということを力説していたのだが、いったい何をトップダウンしたかったのだろう。それは仕事をしていなかった、ということだなあ。やっぱりもう大学は組織としては駄目になっているのだと思わざるを得ない。
端で見ていて思ったのは、中途半端に事務作業ができると、それが行政職の仕事のすべてだと思い込んでしまう傾向がある。その結果は、日々のルーチンだけを自分でこなしてしまうのと、事務方の企画部門がやるべき仕事もあるということに気がつかない。事務職だってヒラと中間の管理職以上に求められていることは違うんじゃないか。なんか事務屋は最後まで事務屋だと思ってはいないか? その上で、おれはそれを上手にやれると思い込むのは、なにか他人を馬鹿にしていないか。あまりに一般論ですが。

就業規則のチェックをしながらふとそんなことを思い、暗澹たる気分になる。競争的雰囲気の醸成のために成果主義を導入するとの名目で、膨大な業績票の入力を要請される。floppyに何度も上書き保存すると壊れるかもしれないとの但し書きがつくほどに膨大なもの。チェックはできないよね。確実に。給与に反映させるっていうけど、給与体系まだ決まってないんですけど。っていうか、それ勤務労働条件にかかわることなんだけど、労使協定まだなんですけど。うちは少数派組合だからいいすけど。多数派の組合は知ってて大方同意してるんですよね。それともガチンコでやるのかな。必要なことならやればいいと思うけど。経営ってきっとそういうもんだろうし。

研究費にも(これはやりようによっては勤務労働条件に引っかからないかもしれない)反映するって言ってるんすけど、相対評価で上位5%にplus 50%, 下位10%に10%の研究費削減って、理系でだいたい50万程度、文系で20万程度の予算で、しかしそもそも、研究教育の総体がこれからさらにマイナスシーリングでどんどん減っていくのが予想されるんですけど、なんか雰囲気悪くするって以外の意味あるんすか。2000万の研究費引っ張ってきた人が、2050万から2075万になって、文系で、20万から18万に10%ぐらいの人がなって、なんか意味あるんすか、というような本質的なことはともかく(体面上そういう種類のことはしないと駄目なんだろうねえ)。COEの書類にも使えるそうなんだけど、えーと。

研究教育に最低必要な固定費なるものを(恣意的にであれ)設定して、そこからがんばった人には報償費でドカンと予算重点配分、というのでは駄目なんすか。おんなしことなんですから、言い方なんですけど、でもようするに発想というか経営の方針と組織管理上の一貫した方針あるんですかね。そんなに機械的に決めてそれって経営なんすか。
たしかに大学って学校ですけど、そんなもろ出来の悪い進学校みたいなやりかたでうまくいくって考えるのは甘いんじゃないすかね。進学校は入試っていう外側の目に見えるチェック装置あるけど。

いやそもそも、成果主義とか競争って、市場や世論によって判定するんじゃないんですか? 二重にチェックかけてどうするんすか。社会主義計算論争もっぺんやるんすか。いやたしかに計算可能、理論的には、なんですが。市場メカニズムを導入すると称しながら?
考えるべきなのは世論と市場の評価をどう反映させるかではないのですか?だとすると世論と市場に十分に情報を与える、という方向で設計して、その評価をどう反映し、短期的観点からの歪みをどう是正するか、というのが考えるべきことで、いきなりエクセルのシートにいろんな計算式を入れるという方向の発想はちょっと筋が悪くないすか。それより昇進で差をつけるべきこと、ボーナスでつけること、手当として支給すること、研究費で差をつけることの仕分けからしたほうがいいような気がします。ねずみの浅知恵だと。

もう情報公開とアカウンタビリティという社会正義の観点だけで十分じゃないすか。それと評価を絡めて、なんか素晴らしい結果がもたらされると思い込むってのはナイーブにみえるんすが。

こんなこと組合が言うことじゃないよね。
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トップダウンを言うからには、やはり経営責任、管理責任は問わないといけない。民間でたとえば任期2年の2期つとめればくるくる順番に交代するような経営責任者って、これはもうどう考えてもアモラルになる。しかも一方で研究の邪魔だからやりたくないとほぼ100%誰もがいいながら、実は一方で熾烈なポスト争いがあったりするのは、要するに任期中に研究できないけど、やりたい放題やって、中・長期的なことは何も考えず、それで問題が出たとしても、責任は法人全体、さっさと一研究者復帰というのは、少しまずいように見えます。もしそうであれば。

ただ、現在の「改革」という名の「改組」はどうもそう見える。カリキュラムとが学部の構成とか一義的には内側向いた仕事だから弊害はすぐには表面化はしないだろうけど。

堂々と、5年後のことはワカラナイ、この改組が終わったら次の人に次のこと考えて欲しい、と公言しちゃうようなやり方はまずくはないだろうか。税金使ってなければ問題はないけど。

いまの中心世代は他人のために何かをやる、という感覚に乏しいように思う。それってつまり左翼ではない、ということなのだが、それがこの国の左翼だった、というのは歴史を振り返るとそういわざるを得ないというのは、もう繰り返しの愚痴だね。自己実現はひとりでやってよ。
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やっぱどっかで経営責任を問うような項目入れないと駄目なのかな。それこそ研究費のカットぐらいかな。それも変だよね。ほんとうは給料のカットなんだろうけど。賃金体系上それは難しいしねえ。
というようなことを考えては鬱になる。愚痴愚痴愚痴愚痴愚痴。

ああ、書いちゃいけないこと書いてる気がするなあ。まあいいか。たぶん日本中で起こってることだ。たぶんこういう地方の中堅大学の事情なんてマスコミには出ないだろうし。

ねずみはunionなので免れているけど、じつは研究したいし、能力もある人が中心になって、後始末というか具体業務やってて、「改革」に一生懸命だった人が、奇妙な組織とカリキュラムつくって、しかし、実務能力ゼロなので、業務から外されたり、思い通りにならないと拗ねてみせて、果実はだけは食い荒らして(ポストとかそういう実利にかかわるところ)さっさと逃げてみたうえに、暇になっって学生とお外で遊んでみたり、まあこれは愚痴だよねー。もうやめよう。
できる人は研究したいからねー。できない人がどうしても組織いじりと(自称)教育改革に一生懸命になっちゃうんだよね。構造的問題だねえ。ユートピア・トラップにはまらずに、これをうまく扱うのは難しいねえ。

やっぱもう組織としての大学ってだめっすかね。一緒に学問まで流されてしまわないようにしないといけないっすね。これは真剣に考える価値はまだあるっすよね。

というわけなので、土曜日の発表はレジュメ切り詰めてる暇ないので(愚痴言う暇はあるけど)、レジュメ15枚ってことでヨロピコ。

っていうかきしどん大丈夫なんか?