これって


今日は発表の準備。昨日一日空いてしまったので、ペースが出ない。

BMに乗っておられるK村先生から下賜していただいた、焼きビーフンを食う。昨晩1万円の夕飯に目前でありつけなかったネズミに、菩薩心(Buddhist saint heart)を抱かれしか。

これって、ゲーデル問題?(いやチューリング問題か。)
http://d.hatena.ne.jp/nand/20041104
ちがうか。
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もうすこし労働者がやるような、かっこわるい労働にも力を注いでください。労働者、あるいは、虐げられしX(X:Xには任意の虐げられた存在)の味方のひと。

むかし学生の頃やっていたサークル(ガラパ)は一部・二部制というきわめて差別的な制度が引かれていた。一部の人は6時頃までサークル部屋を占領し、文化や哲学について語っていたという。その時間帯に二部の人が来ると、とても冷たくあしらって、くさいくさいとさえ言ったらしい。6時を過ぎると全然違う種類のひとがやってきて、ビラを刷ったり、糊をお湯で溶かし始めたり、ビラを巻いたり(ビラはまず巻くんだよ!)し始めるので、一部の人はいなくなる。
この、一部二部という物言いは、もっぱら二部の人が来た、とかそろそろ二部の人がくる、という文脈で使われていたらしい。(失礼だよな。)
ぼくが大学に入った頃は、こういう言い方はしなくなっていたが、まだ若干その制度が残っていた。一部の人は編集者だったり、カルスタだったり、反帝国だったりしている。二部の人は官僚だったり、ビジネススクールだったりしている。

どういうことだろうか。これだけ見ると上部構造が反体制で下部構造が体制ということになる。
そうなのか? >いそちゃん

ちなみにぼくはたぶん手刷りでビラが刷れる最後の世代だ。
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ただ昨日のキム先生の話(韓国の立法面、制度面での日本にたいしての先進的な状況)も、そういうことと無関係ではない。日本の場合80年代以降、左翼もフェミニズムも、すくなくともメディアに取り上げられるのは、よく言えば(消費)生活に根ざした、悪く言えば政治軽視の運動であったように思う。
ただ、その結果が、現在のバックラッシュとなって現れているといえなくもない(よく考えんといかんが)。が、生活に根ざしている、ということは一方で、大学や行政の外側では、しっかりとした、それこそちょっとやそっとではひっくり返されない抵抗線が存在する、はずなのだが。さて生活に根ざしていたか、どうか。

80年代以降の文化左翼、文化フェミニズムが、どれだけのものだったか、というのがそろそろわかるわけだ。それとは別に、もうすこし政治参加を真剣に考える必要があるということを韓国の女性政策の現状は教えているようにも思う。