Is it not monstrous that this player here ?

たしかにいそがしかったがな! 日記を全然書いてなかったのに気がつく。基本的に忙しくて勉強できないので日記を書いていたのだが、日記も書けなくなるとはな。
きしさいとうさん、ケーキ、おいしゅうございました。水ぐらいがぶがぶ飲んでくれていいですよ。とっておきのペリエ(ライム風味)だったけど。

ところできしくんはテレビでシャルロット・ゲンズブールを見たら、やおらズボンのベルトを緩めだした。止めていなければどうなったことか。
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越前からの手紙だけど、微妙にずれながら話が進んでいるようにも思うけれど、たとえば「身体」というキーワードは、一般に思われているのとは逆に、身体を入れてものを考えようとすると、そのとき哲学は終わり、科学に向けて歩き始める、というように思う。というのも身体corpsは魂ameと違って観察可能であり、観察可能であるかぎりで分析可能なのだから(ああcorpus mysticumというのもあるなあ。まあ観察可能と言えなくもないか。)。
なんというか通常の(科学的)分析の手順に乗らないようなものを「身体」というキー・ワードでひとくくりにしようという誤解が存在しているようにも思うけれど、そりゃ筋がわるいように思う。観察できず、分割できないものは身体ではなくて魂の方ではないのか。具体的には指摘できないが(忘れてしまったので)、というか無根拠な思いつきで言うと、だいたいくだらない身体論では、身体のところに魂と入れてもあまり矛盾は起こらないに、100ガバチョ。

ダーウィンはあきらかに人間の人間的なるものを(進化論的に?)分析することを意図としたThe Expression of the Emotions in Man and Animalsのなかで、Emotionの分析をしたのだが、たしか本文のなかでは、魂という言葉はきわめて皮肉なトーンで触れられたただ一度(しかもたしか脚注)をのぞいては、使われていない(この文章の冒頭に挙げたハムレットの引用は別として)。魂を除外したのちにダーウィンが向かうのは前言語的現象であるemotionsの表現である。それは「表情論」と邦訳されたことが特徴的に示すように、まったく観察可能な身体現象(赤面、肩をすくめる、etc..)から出発し、そこにとどまる(エネルギー論的説明もあるけれど、しかしそれは仮説として慎重に扱っているし)。しかしそれは、きわめて禁欲的な記述のなかにも、分析の対象として、いわゆる感情だけではなく、言語を用いたコミュニケーションや習慣habit(文化とは呼ばないまでも)をも含めようとしている。

The Expression of the Emotions in Man and Animals: Definitive Edition

The Expression of the Emotions in Man and Animals: Definitive Edition

ちなみに、管見のおよぶ範囲では(ってほとんど読んでないが)常に周到なデリダの、その動物性の分析の中では、ダーウィンのこの本は触れられてはいないように思うのだが、それはやはり意図的なものだろうなあ。(それともどこか知らないところで言及されているのだろうか?)
なんともmonstrousな、顔、表情、仕草、叫び。こうした身体的なものによる「表現」が、人間的なものmind(あるいはsoul?)に通じるただひとつの道であり、そのかぎりで分析への身体的なものの導入はむしろ哲学からの離脱と科学的な領域に向かうことをもたらすと、まあ素朴に思っていたのだけれど。どうなのか。そしてそれはむしろコンピュータなどによる分析をむしろ可能にする方向におれには思えるんだ。

笑い、恥じらう鉄腕アトムのanimalite。

なんとも度し難い科学主義にも思えるが、アルチュセールから出発したからなあ。しょうがないや。
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なんかいっぱい書くことあるけど暇がないし、どんどん忘れてしまう。身軽な人生?そうでもないよな。