政治の季節?

ピエール・ブルデュー『介入。社会科学と政治行動1961-2001』

介入 ? 〔社会科学と政治行動1961-2001〕 (ブルデュー・ライブラリー)

介入 ? 〔社会科学と政治行動1961-2001〕 (ブルデュー・ライブラリー)

介入 ? 〔社会科学と政治行動1961-2001〕 (ブルデュー・ライブラリー)

介入 ? 〔社会科学と政治行動1961-2001〕 (ブルデュー・ライブラリー)

ずいぶんと前になりますが、頂いておりました、ありがとうございます。出版時期を見ますと、3月ということですからお礼を申し上げるのがずいぶんと遅くなりました。ちょうどこの連休で出張の行き帰りに拝読させていただきました。たいへんに「今日的」な書物であるとの印象を持ちました。非常に重要、と言ってもいいのではないでしょうか。
こうした時論をフランス語で読み通すことは、たんにフランス語の知識以上に、(編者の解説があるとはいえ)その文章の書かれた社会的ないしは政治的背景についての、いくらか些末な固有名詞も含めた知識が必要となりますから、訳者の桜本陽一氏によるこの訳業は、おそらくはフランス語が読める者にとっても非常に有益であり、いやもう、これはほんとうに大変な作業であったろうと思います。
訳者の桜本氏とはこの書物のなかでも言及されているアレゼール日本(リンク古いですが活動してないわけではないはず)の設立のころ、その面々といっしょに、いちどお合いしたこともあります(まさにゃんとマラルメの専門家のO氏、後輩のSくんも同席していたような記憶がありますが、記憶違いで会ったことはないかもしれません。ビミョーです。そのときは、まだわたしはねずみではなく人間の姿をしていました)。そのさいブルデューとも個人的に非常に近いところで仕事をしていたと伺っていたのですが、じっさい桜本氏の解説を読みますと、そのことがたんにエピソード的な背景事情の紹介という域を超えて、ひじょうに行き届いたものになっています。あきらかにフランス語原著を超えた価値をもっているように思われます。

やはり版元(共和国)より御恵投いただいた羅永生(丸川哲史, 鈴木将久, 羽根次郎他訳)『誰も知らない 香港現代思想史』(申し訳ないまだ未読です)と併せて、すこし(知識人、ないしはインテリ?の)「政治」なるものを考えるよすがとしてみたいと思います。
誰も知らない 香港現代思想史

誰も知らない 香港現代思想史

ちょっとした感想。

ピエール・ブルデューという社会学者はあまり取っつきのよいものではありませんでした。われわれの世代にとっては訳の問題もありましたし、社会学に固有の問題を扱っていると思ったということもあります(ケーザイ学部でしたので)。おおよそのところが分かればいいやというような読み方になっていたのは否定できません。
もちろんその後、語学力の向上や理解の深まりとともに訳の問題は払拭されてゆくわけですが、そのころからブルデューは社会科学者というよりは知識人性をむしろ強調することになり、じっさいこの書物に収録されたような、知識人という以上に、ほとんど「アクティヴィスト」としての側面が強調されはじめ、また(いまも続く)社会学そのものの変容のなかで、また成り上がり者の強烈さといような言い方をした人もいましたが、学界のボスとしての彼の振るまいが、私のような部外者の耳にも届くような感じで、私個人についていえば、なにかしら敬して遠ざけるといったような関係のままでした。

しかし今回、この二冊の翻訳(翻訳と以上にほとんど日本語版共編者といってもいいような書物ですが)によって、私のような者にも、いわばピエール・ブルデューを「歴史」(おそらくは「現代の歴史」でもあり、「現在の歴史」であるようなもの)として読むことが可能になったという印象をもちました。
もちろんこの書物は多様な読み方が可能であろうと思います。ごく単純にブルーデューそのひとの理論なり仕事なりのより深い理解のための重要な補助線を引いた書物として読むということは、社会学を専攻するひとにとってはもっともまっとうな読み方かもしれません。

彼の最初期の、つまりまだ30台の若きブルデューアルジェリア解放戦争期の文書も、それぞれ専門家の人びとにとっては興味深いものでしょう。もちろん社会学の中の人にとっては、教育改革への提言や、ポーランドの連帯を巡る政治、そして晩年の「ヨーロッパ社会国家」についての政治介入が、彼の仕事にどのように反映しているのかといったことは、櫻本氏の丁寧な解説もあいまって、なるほど面白い論点もまだまだありそうな印象を持ちます。現代の歴史の登場人物のひとりとしてブルデューを読むという読み方をすれば、ちょっとした思想史にはなりそうです(ごくごく素朴に考えても国家をめぐるフランスの社会学者それぞれの立場は非常に興味深いものです。カステルとの関係なんかも典型的にそうですが、その背景となった歴史学における国家概念の形成を巡る作業との関係などは、作業の土台として、いちど整理してみる必要はあるでしょう)。

もちろん社会学に近いところにはいますが、インサイダーではない私のような者にとっては、そうした作業をベースに、さらに「現在」を考える上で非常に示唆するところがありました。すでに述べ、また櫻本氏も力を入れて紹介しているヨーロッパ社会国家を巡るブルデューの思想の行程は、ブルデュー理解というだけではなく、もう少し広い範囲の見取り図を描くことにも役立つでしょう。
が、もうすこし抽象的な読み方も可能であるように思いますし、私にとってはそういう書物として非常に興味深いものでした。現代史ではなく、「現在の歴史」としての読み方は、いずれにせよそのようなものにならざるをえないでしょう。現在はどうしようもなく相対化不可能なものですから、それと同じように、適切な距離をとれないまま、このピエール・ブルデューの(こういってよければ)「成功」と「失敗」からもうすこし考えてみたいと思います。もちろんなにが「成功」で、なにが「失敗」であったかもまた、まだまだ進行中の開かれた読み直しの中にあるのですが。

2014年、印象に残った本。

去年はあんまたくさんの本を読めなかった。最近、管理ができなくなってきたので、なるべく買った本の記録を取るようにしてるのだけれど、それを見てもここ数年では一番本を買っていない。ひとつには去年はアレントにいろいろ付き合わないといけなかったということもある(もうひとつは柄にもなく出張が増えたとか、もう本が読めなくなってきたとか、もうどこにも収容できなくなってきたとか……)。
一冊あげるとやはり

革命について (ちくま学芸文庫)

革命について (ちくま学芸文庫)

ということになる。これは、再読したのは昨年だけれど、今年は学生と少し丁寧に読んで、いろいろ考えることはあった。この文脈では
啓蒙・改革・革命 (岩波講座 政治哲学 第2巻)

啓蒙・改革・革命 (岩波講座 政治哲学 第2巻)

の石川敬史論文「アメリカの建国」が大胆かつ明快な図式を提示していて、考えるきっかけになる。論集自体も全体として、いろいろバージョンが上がっていて、今風のものにアップデートされているのではないかしら(このへんちょっと勉強が滞っているので語尾を弱めてあります)。

そのほか何をいまさら感満点なのだが、典型的な洋行帰りの感覚。お仕事がらみの本をこういうところにあげるのは、なるべく避けようと思っていたのだが、アレントもそうだけど、仕事以外でというとほんとうに読んだ本が少ない。これも仕事に使った本。ただ、最後の最後で字数が溢れて、書いたほとんどの文章を削ってしまった。
多頭の蛇―詩論集 (1949年)

多頭の蛇―詩論集 (1949年)

同じく、以前見たときには気がつかなった文章を発見して、仕事で使ってしまった。
青ひげの城にて―文化の再定義への覚書 (みすずライブラリー)

青ひげの城にて―文化の再定義への覚書 (みすずライブラリー)

これも再読もの。ぼくが読んだのは、古い装丁のハードカバーで。もっとも、スタイナーの意図に忠実に読んだわけではない(あたり前か)。ちなみにこの本のタイトルは
文化の定義のための覚書 (中公クラシックス)

文化の定義のための覚書 (中公クラシックス)

を念頭に置いている(いわずもがなか)。

しかしこう並べると、年相応にヘタってる感じがしないではないですね。

仕事を離れて楽しく読んだ本はことに少ないのだけれど、下心なく読めたものといえば
建築家・休兵衛 (建築ライブラリー)

建築家・休兵衛 (建築ライブラリー)

これくらいか。建築史がらみの本かと思ったら全然違った。この休兵衛氏は有名な吉島家住宅の七代目当主。しかしこういうこと(ひと?)で一冊本を書いてしまうとは、さすがだ。
そうそう、もともとは授業の準備のつもりで読んだ
戦後とは何か(上) 政治学と歴史学の対話

戦後とは何か(上) 政治学と歴史学の対話

戦後とは何か(下) 政治学と歴史学の対話

戦後とは何か(下) 政治学と歴史学の対話

は途中から爆笑しながらの読書に。雨宮昭一氏がこれほど楽しい人だとは知らなかった。

それと、べつにツイッターであれこれ言われたからとか、そういうことではなく、やはりこの本は画期的だったのではないかしら。後半もう少し読みたい感じもしたけれど、まあそれは別になされるのであろう。
日本の賃金を歴史から考える

日本の賃金を歴史から考える


思い出したらまた足してゆきます。

頂き物。アナーキー・イン・ザ・JP

共著者の森直人さんから御恵投いただきました。

教育システムと社会―その理論的検討

教育システムと社会―その理論的検討

ありがとうございます。
いまはまだその余裕はないのですが、おそらくは『福祉国家と教育』に続いて、教育の「福祉」つまり「統治」(つまりは行政という意味での政治)に関わる側面が、やはり検討の対象になっているのであろうとパラパラとページをめくりながら、そのような印象を持ちました。全体としては問題提起に続いて、短めの議論提示とコメント。そしてシンポ形式の議論という、研究会をそのまま採録したような臨場感のある書物になっています。第三報告では、『「公共性」論』批判があったら、その直後にそのまま「稲葉」なるひとの介入があったりして、この「稲葉」って、あの「稲葉」さんだろうが、巻末の著者一覧のなかに名前がないぞ、臨場感にもほどがあるだろうとか思いながら笑ってしまいました。

 そして冒頭から前回澤田さんにいただいた本の感想で触れたような、職業と教育との関係が真正面から問題にされ、ハマちゃんテーゼにたいする異論が提示されるなど、かなりポレミックなものになっています。
教育学は、文学を母胎に教科教育など師範系、そして行政学、経済など一部のディシプリンの科目が加わってスタートしたという経緯から、よくいえば幕の内的かつ「教養」的であって、それゆえに自己完結しやすい傾向があると、いわゆる師範系の大学のなかにいて思ったりもしておりました。
そこにもってきて、これまでの教育学が教育ー雇用ー福祉という(おそらくは世界的にはむしろその職業教育的な傾きから自明視されてきたのではないかとおもうのですが)連関を等閑視してきたという反省から、冒頭から編者のひとりである広田照幸によって「教育学の自閉性」や「教育社会学の薄っぺらさ」が見出しに上げられるなどなかなか刺激的です。

第一部がそのまま「教育と雇用・福祉」とあり報告が濱口桂一郎・児玉成郎、山口毅。コメントが広田・本田伊克、金子良事。
森さんの書いている第二部は、教育と職業・政治と題されており、卯月由佳・仁平典宏・宮寺晃夫の報告に、本田・森直人のコメント。ここではいわゆる「公教育」が正面から問題にされていますが、森さんのコメントで言及されている、「わくフリ」という実践はとても興味深い。これはかつてフランスで、未就業や長期失業状態にある若者を中心とした人びと(日本でざっくりとニートとして紹介されたような、福祉国家の変容と共にその枠組みをすり抜けてしまった人びと)にたいしておこなわれたRMI(エレミー、参入支援最低所得)と呼ばれた実践を奇妙に思い起こさせるものだったからです。
報告者の森自身によってもその「意味」はまだ展開されていない(つかみかねている?)、ぼく自身も、とても面白い、これはすごいと思いながらも、やにわになんとも「評価」しがたいこの実践がどのようなものかは、実際によんでもらうしかないのだけれど、たしかにやはり(現場は?社会は?学校は?)まだ、創意工夫に満ちていると思わされるものではありました。逸脱なのか、創造なのか、あるいは著者が言うように「反転」なのか、しかしウンザリするあの(上からの)「改革」とは違うなにかがありそうだ、つねに定義の変更に至る事件は発生し続けているのかもしれないなと思わされるものではありました。

第三部「社会の論理と教育論理」でも、比較的規範的な話ではあるのですが、しかしあくまで今日的な倫理学との関係のなかで、つまりphilosphie morale et politique とmoraleとpolitiqueがet でつながれていたいた時代の問題関心のもとで「哲学」的な議論が援用されていますし(高宮正貴・山口毅/堤孝晃に塩崎美穂・下司晶)、第四部はあるいは若手が中心なのでしょうか、フーコーポストモダニズム、さらにロールズ、やセン以降の今風の倫理学風のもの、そして熟議民主主などを主題とした比較的独立した「投稿論文」(それぞれ神代健彦・下司・保田幸子・平井悠介)なるものが掲載されています。しかも最後に広田照幸氏によるランシエールについての投稿論文があったりして、編者が投稿とはなかなかアナーキーだなと感心しました。

なんか紹介めいたこと書いてますが、現状ではとても腰を据えて読むようなことはできないので、なんか見当違いのことを書いてるかもしれませんが、なんか引っかかるところがあるので、そのうちちゃんと読むと思います。

ありがとうございました。

頂き物

一回書いたらふとしたはずみで消えてしまってショック……。
編者の澤田さんからいただきました。ありがとうございます。

シリーズ学びの潮流2 子どもを学びの主体として育てる (シリーズ新しい学びの潮流)

シリーズ学びの潮流2 子どもを学びの主体として育てる (シリーズ新しい学びの潮流)

せっかくいただいたのに、いまちょっとぱらぱらと眺める以上のことは時間的にできなくて申し訳ありません。ただ、ずいぶんと昔、高坂の「期待される人間像」について調べて論文を書いたときに読んだ、当時の教育学者たちの論点がふたたび問題になっているのだなという感じがしました。それは実質的には、(なかでも触れられているように)マルクス主義という論争の焦点が消えたあとにおける論点の再構築といってもいいでしょう。
いっぽうで、それは、ある側面では知育instructionか徳育educationかという革命期以来の論点の今日的表現でもあるような感じもしました。
フランス革命期の公教育論 (岩波文庫)

フランス革命期の公教育論 (岩波文庫)

徳育と訳されるeducationは、共和国の徳を形成するものとしての、政治教育(市民の形成)を強調する傾きと、同時にある種の実学としての経済教育(職業訓練)に傾く両方の特徴を併せ持っているのですが、そのふたつの関係はわりあいと別個のものとして考えられていたように思います。おそらく今日的課題としては、企業をはじめとした労働現場、つまり統治と経済(家政=従属)のロジックが支配する領域において、いわゆる政治的「市民」を成立させる論理(主体化=自律)はどのようなかたちを取りうるのかといったものなのでしょうが、そのあたりは最後のところで簡単に触れられるにとどまっていたように思います。
おそらくは現場の教員や、教員志望の学生を読者として想定したような本でしょうから、脚注が示しているように、短いスペースにかなりたくさんの論点を詰め込もうとすると、抽象的な議論の水準だとかえって難しいのかなという気もしますが。

ただちゃんと読んではないのですが、小文字で書かれた仏独米の事例はちょっと面白そうで、そのあたりから何か考えられそうな予感はしました。

社会科か、道徳か、という論点はつまり政治的主体がどのようなものであるのかということですが、少子高齢化がもうさすがに放置できない状況のなか、ブラック企業問題がホットなイシューになるなど、教育で「政治」をどう考えるか、という論点は、しばらく見えない/見ないことにしていたけど、さすがに考えないといけないよねという状況になっていくのであれば、それは一歩前進なのかなとは思います。

思ったよりも長くなった……。

頂き物

万葉びとの宴 (講談社現代新書)

万葉びとの宴 (講談社現代新書)

著者の上野先生からいただきました。
やや教養主義的な本の読み方をしていた十代の一時期を除いて、ほとんど文学なるものに興味を持たずに生きてきたのだが、三十をいくつか過ぎる頃から、小説を読むようになり、とうとう韻文にまで手を出し始めてしまったこのタイミングで、この書物は何かのメッセージだろうか。誘われているその先にあるのは、成熟なのか、はたまた堕落なのか。

遺産 (現代の起点 第一次世界大戦 第4巻)

遺産 (現代の起点 第一次世界大戦 第4巻)

「「アメリカの世紀」の始動」を執筆した中野さんよりいただきました。言わずと知れた山室班入魂の第一次大戦シリーズ。手を出すと大変なことになるなと思って見て見ぬ振りをしていたのですが、どうも目次を見ると、王寺賢太さん/小泉義之さんを迎え、宇城輝人さん/森川輝一さんをコメンテイターに行うアレント・シンポに向けて、(直接にということではないにせよ)しかし、なにか格好の材料があるのかもしれないという気もしてきました。(ちなみにシンポジウムは9/27になんばで)。

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ありがとうございます。

ナンシーの気持ち

ナンシー……。ぼくはどうしたらいいんだ……。

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弊社からご注文をいただきありがとうございます。
残念なことに、準備発送の時に、ご注文した本のコンディションが許容可能です。この本は倉庫に置いていますので、私はチェックできません、具体的な状況はよく知りません。本当に申し訳ございません。
もしこの本をキャンセルしたいと、速く当店と連絡してお願いします。今キャンセルして全額返金できます。もしこの本を欲しいと、私に教えてお願いします。
この本はしばらく発送します。この度大変迷惑をかけて、本当に申し訳ございません。
もし本が届ける時、本のコンディションを受け入れないと、私と連絡してお願いします、返品・返金できます。
ご理解頂ければ幸いです。誠にありがとうございます。
よろしくお願いします。
Nancy
桜日店

post scriptum

帰宅後。
「ほれ、これ。」
「なんなんこの本」
「きしどん新しい本出してん」
「あーなんかいうとったな。なんなんこの表紙」
「なんなんって」
「なんかこれ、ええひとみたいやんか。」
「んー」