2014年、印象に残った本。

去年はあんまたくさんの本を読めなかった。最近、管理ができなくなってきたので、なるべく買った本の記録を取るようにしてるのだけれど、それを見てもここ数年では一番本を買っていない。ひとつには去年はアレントにいろいろ付き合わないといけなかったということもある(もうひとつは柄にもなく出張が増えたとか、もう本が読めなくなってきたとか、もうどこにも収容できなくなってきたとか……)。
一冊あげるとやはり

革命について (ちくま学芸文庫)

革命について (ちくま学芸文庫)

ということになる。これは、再読したのは昨年だけれど、今年は学生と少し丁寧に読んで、いろいろ考えることはあった。この文脈では
啓蒙・改革・革命 (岩波講座 政治哲学 第2巻)

啓蒙・改革・革命 (岩波講座 政治哲学 第2巻)

の石川敬史論文「アメリカの建国」が大胆かつ明快な図式を提示していて、考えるきっかけになる。論集自体も全体として、いろいろバージョンが上がっていて、今風のものにアップデートされているのではないかしら(このへんちょっと勉強が滞っているので語尾を弱めてあります)。

そのほか何をいまさら感満点なのだが、典型的な洋行帰りの感覚。お仕事がらみの本をこういうところにあげるのは、なるべく避けようと思っていたのだが、アレントもそうだけど、仕事以外でというとほんとうに読んだ本が少ない。これも仕事に使った本。ただ、最後の最後で字数が溢れて、書いたほとんどの文章を削ってしまった。
多頭の蛇―詩論集 (1949年)

多頭の蛇―詩論集 (1949年)

同じく、以前見たときには気がつかなった文章を発見して、仕事で使ってしまった。
青ひげの城にて―文化の再定義への覚書 (みすずライブラリー)

青ひげの城にて―文化の再定義への覚書 (みすずライブラリー)

これも再読もの。ぼくが読んだのは、古い装丁のハードカバーで。もっとも、スタイナーの意図に忠実に読んだわけではない(あたり前か)。ちなみにこの本のタイトルは
文化の定義のための覚書 (中公クラシックス)

文化の定義のための覚書 (中公クラシックス)

を念頭に置いている(いわずもがなか)。

しかしこう並べると、年相応にヘタってる感じがしないではないですね。

仕事を離れて楽しく読んだ本はことに少ないのだけれど、下心なく読めたものといえば
建築家・休兵衛 (建築ライブラリー)

建築家・休兵衛 (建築ライブラリー)

これくらいか。建築史がらみの本かと思ったら全然違った。この休兵衛氏は有名な吉島家住宅の七代目当主。しかしこういうこと(ひと?)で一冊本を書いてしまうとは、さすがだ。
そうそう、もともとは授業の準備のつもりで読んだ
戦後とは何か(上) 政治学と歴史学の対話

戦後とは何か(上) 政治学と歴史学の対話

戦後とは何か(下) 政治学と歴史学の対話

戦後とは何か(下) 政治学と歴史学の対話

は途中から爆笑しながらの読書に。雨宮昭一氏がこれほど楽しい人だとは知らなかった。

それと、べつにツイッターであれこれ言われたからとか、そういうことではなく、やはりこの本は画期的だったのではないかしら。後半もう少し読みたい感じもしたけれど、まあそれは別になされるのであろう。
日本の賃金を歴史から考える

日本の賃金を歴史から考える


思い出したらまた足してゆきます。

頂き物。アナーキー・イン・ザ・JP

共著者の森直人さんから御恵投いただきました。

教育システムと社会―その理論的検討

教育システムと社会―その理論的検討

ありがとうございます。
いまはまだその余裕はないのですが、おそらくは『福祉国家と教育』に続いて、教育の「福祉」つまり「統治」(つまりは行政という意味での政治)に関わる側面が、やはり検討の対象になっているのであろうとパラパラとページをめくりながら、そのような印象を持ちました。全体としては問題提起に続いて、短めの議論提示とコメント。そしてシンポ形式の議論という、研究会をそのまま採録したような臨場感のある書物になっています。第三報告では、『「公共性」論』批判があったら、その直後にそのまま「稲葉」なるひとの介入があったりして、この「稲葉」って、あの「稲葉」さんだろうが、巻末の著者一覧のなかに名前がないぞ、臨場感にもほどがあるだろうとか思いながら笑ってしまいました。

 そして冒頭から前回澤田さんにいただいた本の感想で触れたような、職業と教育との関係が真正面から問題にされ、ハマちゃんテーゼにたいする異論が提示されるなど、かなりポレミックなものになっています。
教育学は、文学を母胎に教科教育など師範系、そして行政学、経済など一部のディシプリンの科目が加わってスタートしたという経緯から、よくいえば幕の内的かつ「教養」的であって、それゆえに自己完結しやすい傾向があると、いわゆる師範系の大学のなかにいて思ったりもしておりました。
そこにもってきて、これまでの教育学が教育ー雇用ー福祉という(おそらくは世界的にはむしろその職業教育的な傾きから自明視されてきたのではないかとおもうのですが)連関を等閑視してきたという反省から、冒頭から編者のひとりである広田照幸によって「教育学の自閉性」や「教育社会学の薄っぺらさ」が見出しに上げられるなどなかなか刺激的です。

第一部がそのまま「教育と雇用・福祉」とあり報告が濱口桂一郎・児玉成郎、山口毅。コメントが広田・本田伊克、金子良事。
森さんの書いている第二部は、教育と職業・政治と題されており、卯月由佳・仁平典宏・宮寺晃夫の報告に、本田・森直人のコメント。ここではいわゆる「公教育」が正面から問題にされていますが、森さんのコメントで言及されている、「わくフリ」という実践はとても興味深い。これはかつてフランスで、未就業や長期失業状態にある若者を中心とした人びと(日本でざっくりとニートとして紹介されたような、福祉国家の変容と共にその枠組みをすり抜けてしまった人びと)にたいしておこなわれたRMI(エレミー、参入支援最低所得)と呼ばれた実践を奇妙に思い起こさせるものだったからです。
報告者の森自身によってもその「意味」はまだ展開されていない(つかみかねている?)、ぼく自身も、とても面白い、これはすごいと思いながらも、やにわになんとも「評価」しがたいこの実践がどのようなものかは、実際によんでもらうしかないのだけれど、たしかにやはり(現場は?社会は?学校は?)まだ、創意工夫に満ちていると思わされるものではありました。逸脱なのか、創造なのか、あるいは著者が言うように「反転」なのか、しかしウンザリするあの(上からの)「改革」とは違うなにかがありそうだ、つねに定義の変更に至る事件は発生し続けているのかもしれないなと思わされるものではありました。

第三部「社会の論理と教育論理」でも、比較的規範的な話ではあるのですが、しかしあくまで今日的な倫理学との関係のなかで、つまりphilosphie morale et politique とmoraleとpolitiqueがet でつながれていたいた時代の問題関心のもとで「哲学」的な議論が援用されていますし(高宮正貴・山口毅/堤孝晃に塩崎美穂・下司晶)、第四部はあるいは若手が中心なのでしょうか、フーコーポストモダニズム、さらにロールズ、やセン以降の今風の倫理学風のもの、そして熟議民主主などを主題とした比較的独立した「投稿論文」(それぞれ神代健彦・下司・保田幸子・平井悠介)なるものが掲載されています。しかも最後に広田照幸氏によるランシエールについての投稿論文があったりして、編者が投稿とはなかなかアナーキーだなと感心しました。

なんか紹介めいたこと書いてますが、現状ではとても腰を据えて読むようなことはできないので、なんか見当違いのことを書いてるかもしれませんが、なんか引っかかるところがあるので、そのうちちゃんと読むと思います。

ありがとうございました。

頂き物

一回書いたらふとしたはずみで消えてしまってショック……。
編者の澤田さんからいただきました。ありがとうございます。

シリーズ学びの潮流2 子どもを学びの主体として育てる (シリーズ新しい学びの潮流)

シリーズ学びの潮流2 子どもを学びの主体として育てる (シリーズ新しい学びの潮流)

せっかくいただいたのに、いまちょっとぱらぱらと眺める以上のことは時間的にできなくて申し訳ありません。ただ、ずいぶんと昔、高坂の「期待される人間像」について調べて論文を書いたときに読んだ、当時の教育学者たちの論点がふたたび問題になっているのだなという感じがしました。それは実質的には、(なかでも触れられているように)マルクス主義という論争の焦点が消えたあとにおける論点の再構築といってもいいでしょう。
いっぽうで、それは、ある側面では知育instructionか徳育educationかという革命期以来の論点の今日的表現でもあるような感じもしました。
フランス革命期の公教育論 (岩波文庫)

フランス革命期の公教育論 (岩波文庫)

徳育と訳されるeducationは、共和国の徳を形成するものとしての、政治教育(市民の形成)を強調する傾きと、同時にある種の実学としての経済教育(職業訓練)に傾く両方の特徴を併せ持っているのですが、そのふたつの関係はわりあいと別個のものとして考えられていたように思います。おそらく今日的課題としては、企業をはじめとした労働現場、つまり統治と経済(家政=従属)のロジックが支配する領域において、いわゆる政治的「市民」を成立させる論理(主体化=自律)はどのようなかたちを取りうるのかといったものなのでしょうが、そのあたりは最後のところで簡単に触れられるにとどまっていたように思います。
おそらくは現場の教員や、教員志望の学生を読者として想定したような本でしょうから、脚注が示しているように、短いスペースにかなりたくさんの論点を詰め込もうとすると、抽象的な議論の水準だとかえって難しいのかなという気もしますが。

ただちゃんと読んではないのですが、小文字で書かれた仏独米の事例はちょっと面白そうで、そのあたりから何か考えられそうな予感はしました。

社会科か、道徳か、という論点はつまり政治的主体がどのようなものであるのかということですが、少子高齢化がもうさすがに放置できない状況のなか、ブラック企業問題がホットなイシューになるなど、教育で「政治」をどう考えるか、という論点は、しばらく見えない/見ないことにしていたけど、さすがに考えないといけないよねという状況になっていくのであれば、それは一歩前進なのかなとは思います。

思ったよりも長くなった……。

頂き物

万葉びとの宴 (講談社現代新書)

万葉びとの宴 (講談社現代新書)

著者の上野先生からいただきました。
やや教養主義的な本の読み方をしていた十代の一時期を除いて、ほとんど文学なるものに興味を持たずに生きてきたのだが、三十をいくつか過ぎる頃から、小説を読むようになり、とうとう韻文にまで手を出し始めてしまったこのタイミングで、この書物は何かのメッセージだろうか。誘われているその先にあるのは、成熟なのか、はたまた堕落なのか。

遺産 (現代の起点 第一次世界大戦 第4巻)

遺産 (現代の起点 第一次世界大戦 第4巻)

「「アメリカの世紀」の始動」を執筆した中野さんよりいただきました。言わずと知れた山室班入魂の第一次大戦シリーズ。手を出すと大変なことになるなと思って見て見ぬ振りをしていたのですが、どうも目次を見ると、王寺賢太さん/小泉義之さんを迎え、宇城輝人さん/森川輝一さんをコメンテイターに行うアレント・シンポに向けて、(直接にということではないにせよ)しかし、なにか格好の材料があるのかもしれないという気もしてきました。(ちなみにシンポジウムは9/27になんばで)。

***
ありがとうございます。

ナンシーの気持ち

ナンシー……。ぼくはどうしたらいいんだ……。

        • -

弊社からご注文をいただきありがとうございます。
残念なことに、準備発送の時に、ご注文した本のコンディションが許容可能です。この本は倉庫に置いていますので、私はチェックできません、具体的な状況はよく知りません。本当に申し訳ございません。
もしこの本をキャンセルしたいと、速く当店と連絡してお願いします。今キャンセルして全額返金できます。もしこの本を欲しいと、私に教えてお願いします。
この本はしばらく発送します。この度大変迷惑をかけて、本当に申し訳ございません。
もし本が届ける時、本のコンディションを受け入れないと、私と連絡してお願いします、返品・返金できます。
ご理解頂ければ幸いです。誠にありがとうございます。
よろしくお願いします。
Nancy
桜日店

post scriptum

帰宅後。
「ほれ、これ。」
「なんなんこの本」
「きしどん新しい本出してん」
「あーなんかいうとったな。なんなんこの表紙」
「なんなんって」
「なんかこれ、ええひとみたいやんか。」
「んー」

頂き物。岸政彦『街の人生』勁草書房

街の人生

街の人生

著者の岸さん、いやきしどんからいただきました、あ、きしどんがくれました。ありがとう。
いろいろ心配してたんだけどw、すごくいい本だと思う。きしどんと会って、こういう本を読みたかったな、と思っていた本がああ、ここにあるなあという気がする。

相手が面白いこと言うと、競争心を出して、もっと面白いことを言わんと気が済まんひとやから、こんないかにも聞き上手みたいな相づち打ってるはずがなくて、どう考えても、まあもっとしゃべってるやろとは思うけど。

いい本だと思う。表紙も普通でいいし。21世紀だんもんね。ふつうはこういう感じになるよね。表紙は、きしどんが指定したみたいで、やっぱりなって思った。KS書房っぽくなかったから。KS書房って、頭文字にしてもあんまり意味ないけど。
さすがにむかしほど酷くはないけど、それでも学術書だからこんな感じだろ的ないっちょ上がり感が伝わってくるデザインがいまでも多い。たぶんそれってデザイナーのひとが感覚が古いはずないから、こういう感じにしないとダメだってって、デザイナーのほうが、消費者じゃないほう見て決めてるからなんだろうなってずっと思ってた。たぶん僕らの世代あたりだと、けっこうたくさんのひとがそう思ってるから、独立してできたような小さな出版社の本のほうが、そんなに金がかかってなくても魅力的な装丁の本が多い気がする。たとえそれはそれなりに「いっちょ上がり」の仕事であったとしても。

なかみもすごく「新しい」と思う。新しいって書いたけど、聞き取りを聞き取りとしてまとめた本だからそういう意味では、じつは類書はほかにも多い。ルポライターっていう仕事がまだ輝いているような感じがしていた頃は、こういうインタビュー集っていうのはたしかにあった。まあでもなんかが違うような気がするけど。かつてときめいていた猪瀬直樹にもそんな本があったはずだ。目を外に向けたら、スタッズ・ターケルがいるし、ずいぶんとあの本も売れたはずだけど、けど、いつしかそういう本はなかなか見つけにくくなった。

ブログの時代になって、ああって思ってことがあって、それはとても自由だって感じがしたのはいまでも覚えてる。

まあ大学の周りでずっと生きてきたし、ちょっとそういうところに近い人たちが手の届く範囲にいたこともあったから、出版も含めてだけど、そういう業界を遠くから眺めることも少しはできた。眺めるというか、耳に入れるというか、入るというか。しかしまあそれは、なんか窮屈で、窮屈だけじゃなくて、「ウゼー」って感じがすごくしていた。このブログの時代は、その「ウゼー」っていう感じなしにああ思いついたら文章書いていいんだっていう感じがすごく開放感があった。

結局忙しくなってしまって、このブログもいつしかあまり更新しなくなっちゃったけど、最初にブログを書いたときに、何にも言わないのにぱっと見つけてきたのがきしどんだった。あれ王様やろ!って言われて、あれ?って思ったのを覚えている。王様って言うのは、まあ自分のことをねずみ王様とか言ってたからだけど、まあ誰も読むと思ってなかったら、いい年して、ねずみだチューとか書いてたたんだな。ばかだなあ。

でもまあ書いたら速攻で見つかって、書いてるともなんとも言ってなかったから、そうか、読む人がいるんだ、そして書いたら誰かが勝手に見つけるんだっていうことをビックリしながら思った。

最近はマスメディアの評判が悪くて、まあぼくも意図的にdisってる。意図的にって言ってもまあ、おまえらいい加減にせえよって思うからなんだけど、そういうこととは別に、ぼくがあの業界を遠くの方から見ていて、あーあ、って思ってたことがやっぱりブログ時代になって、隠しようがない感じで明らかになってしまったということはあるだろうなって思う。

もちろんいまも大江健三郎の新作を読んでいて、これはもうほんとうにさすがにすばらしくて、いろいろ文句はあってもたしかに並のものではありませんという感じがヒシヒシとする。でも、なんかこう「あれ?」っていう人たちがいて、なんというかなんの普遍性も一般性もない、ただ出版村のひとですというだけのひとたちがなんだか出版村のご出身というだけで、いろいろ文章を書いて、何か普遍的だったり一般的だったりする顔をしてるなあって思ってた。まあコネだね。

べつにコネはまあコネで仕方ないけど、(この本の中にそういう話も出てくる)、けっきょくそれがいつの間にか、ごく当たり前というか、ある世代のひとだったら、同じようにやっつけ仕事するんでも、なんでこんな風なものになっちゃうんだろうっていう不思議な商品が結果としては少なからず出版される世界になって、「才能」とか、「感覚」とか、そんな大層なものでなくて、ちょっとづつ世代は違っても、同じ時代を共有してて、そんなかで当たり前に共有されてる、「ふつう」の感覚、べつにおれらヤンキーでもないし、「ミンカンのおっちゃん」でもないし(ああもうオッサンになってもうた)、いくらなんでも、「あれ」じゃなくて「これ」だよねっていう、当たり前の感覚が失われてる時代があったような気がする。
***
ああこんなつまらない人間のつまらない話を金を出したひとに読ませるぐらいならA研で(だいたいは僕よりも若い)院生やODや、それこそきしどんたちが報告してるような話を、もっと多くのひとが読めるようになればいいのにってずっと思っていた。ずっとってまあ、なんかつまらないものを読んだとき。かならずしも研究書とか、論文にはかぎらないというか、むしろそれ以外のもの、つまりジャーナリズムと称するものを読んだときに、すごくそう思ったかもしれない。
A研っていうのは、いまはもうやってないけど(開店休業なのかな)、きしどんはじめ、市大の社会学の院のひとたちを中心にやっていた研究会だった。京都から大阪に、大阪というか堺だけど、まあ南河内にやってきて、そこで誘われて社会学者でもないのに、ずっとその研究会に出ていた。すごい面白かったから。だからほとんど休んでないと思う。で、たくさんの(多くはぼくよりも若い)友達ができた。ぼくはほんとうに多くのことを学ばせてもらったと思ってる。

いろんなひとがいたA研だけど、もちろんそこには「おさい」こと斉藤さんもいて、おさいが発表すると、みんな質問するんだけど、おさいが答えようとするまえになぜか岸どんが先にしゃべり始めて、車がエンストするときみたいにおさいがガックンとなって、ほんとにドリフのコントみたいだったんだけど、それが何度か続いて、かならずおさいが途中で切れるという感じだった。

ちょっとなんか懐かしくなってる。
***
この聞き取りもそうだけど、活字になったものの背景にはほんとうに膨大な量のテープ起こしや、テープに記録されてなかった話があって、それはなんというか「面白い」ものであった。なぜ「面白い」のか、うまくはいえない。けど、それは別にとくに劇的でも、いかなる意味でも「特別」でもない友達の話を聞くことが、たとえばそれは相談であったり、愚痴だったりもするんだけど、でもなにかそこには「意味がある」ような感じがするひとは多いんじゃないだろうか。

変なたとえかもしれないけど、お葬式でそういうことがあることが多い気もする。

もちろんA研で聞いた話はもちろん相談や愚痴じゃなくて、そののち論文になったりするものだったんだけど、ああいいなあと思う要素というのは、あんがいと論文では消えてしまったりするのが残念だった。けど、この本にはそのときに、ああいいなあと思った何かが残ってる感じがする。

岸政彦は、かならずしも狭い意味でのブログ時代の書き手ではなくて、その少し前の時代からインターネットの世界でいろいろと書いたりしゃべったり暴れたりしていたし、社会学者としてはもうほんとうに伝統的な調査屋さんで、インタビューなのに、ひとの話を聞かないで、じぶんばっかり喋ってるみたいなことになったりもすることはあっても、まあみんなが百歩譲れば、そういう意味では職人さんだと思う。けど、それが岸どんの面白いところなんだけど、なんかそういう職人気質みたいな部分と「現代」というか時代の感覚みたいなものが同居していて、インターネットが開けた風穴のなかから、それをこじ開けてインターネットがつないだそのほかの「社会」に、ずかずかと押し入ってきた、そういう書き手だと思う。

前書きを読むと「日系南米人のゲイ、ニューハーフ、摂食障害の当事者、シングルマザーの風俗嬢、元ホームレスの普通の人生の記録」とある。

これだけよむと、なにか特殊なものであるかのような印象を一瞬持ってしまうかもしれない。でも、読めば、誰でもあっ、そうやったんか、って気がつくと思うんだな。つまり。それはほんとうに自分の隣にある生活の一コマで、耳さえ傾ければ、傾けた耳に語りかける気になりさえしてもらえれば――たぶんそこに職人技なのかなんなのか、そういうものがあると思う――、すぐそばにある「ふつう」の社会の出来事だってことがここではっきり描かれてると思う。A研でみつけたものもその「ふつう」だし、ブログの時代になって空いた風穴のおかげで、ぼくのような読者が読みたいなあって思ってことはきっとこれで、話す/書くことと聞く/読むことのあいだに本来あって欲しかったような関係が、その「ふつう」とのあいだに成立するような関係だったんだなって思う。

でもこの普通があんがいとできない。売れないからだって業界のひとはいうんだろうけど、違うんじゃないかなっていう直感はある。

これはまあ友人の本だし、もらった本やし、もうムッチャ宣伝としか言いようがないけれど、いやこの本が読めて、よかったなと思う。そしてこういう本を出すことにしたKS書房もよかったなと思うし、編集のひともえらかったなと思う。たくさんのひとに読んでもらえればいいなと思う。