書評 ロベール・カステル『社会喪失の時代』

社会喪失の時代――プレカリテの社会学昨年に出版されたロベール・カステルの『社会喪失の時代』(北垣徹訳、明石書店)の書評です。あまり直接的な書評になってはいないのですが、途中で出てくる『トリスタンとイズー』は、この書物のなかの第10章、「社会喪失の物語 −− トリスタンとイズーについて」を念頭に置いたものです。カステルにとってはわりと重要な論文です。そのことを書けばよかったんですが、うっかりしていました。
なんか昼間さんが訳した、ドアノーとサンドラールの本(写真集)、そしてフーコーの『狂気の歴史』の書評かよ、 みたいなことになってますが、カステルについては行きがかり上、あれこれ書いたりしゃべったりしないといけなかったので、あれもこれも書いちゃったし、喋っちゃったしなーということで、頭をひねった結果こうなりました。かなり苦労したんですが、妻に見せたら思わせぶりでよろしくない(大意)と言われまして心に傷を負いました。
半年ほど前に、某『図書新聞』に載ったものですが、太っ腹にもブログ掲載のOKをいただきましたので、blogにあげます。その号には、訳者の北垣さん、羊先生こと宇城さんの書評も掲載されています。私の書評よりは内容に即したものになっておりますので、リンク先を読んでいただければ、中身と背景、そして今日の日本においてなぜカステルのこの書物を読むべきかということについて、よく分かるのではないかと思います。

ただし、実際に載ったものは、ここからさらに手直しが入っています。どこをどう直したのかもう分からなくなってしまったので、直しようもありません。公表一歩手前のバージョンということです。テニオハの狂いも含めてそのままです。怠惰なものでご了解ください。

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狂人、放浪者、賃金労働者――ある中世への回帰


社会問題の変容 ―賃金労働の年代記―もうひとりのロベール、ロベール・ドアノーの写真に「ヴィルヌーヴ・サン=ジョルジュの鉄道歩道橋」という写真がある。この写真が撮られたのは1945年、おそらくは戦争が終わった直後である。『社会問題の変容』の表紙カバーに選んだ写真だ。
いかにも郊外にありそうな巨大な鉄道操車場の歩道橋のうえに、膝丈のフード付きレインコートを来た人物が、こちら側に背中を向けて立っている。年齢も性別もよくは分からない。が、背丈は橋の欄干ほどしかなく、少年のようにもみえる。冬の朝だろうか。機関車からの煙が風に流され、曇り空に溶け込んでいる。カスパー・ダービッド・フリードリッヒの有名な絵画――雲海に周囲を覆われた山の頂で、黒いコートをまとった男性が雲の彼方を見つめている――を一瞬は思い起こさせるけれど、その連想も長くは続かない。ドアノーの写真は、視点が低くに据えられ、霧の中で途方に暮れているようにもみえるからだ。ただ、フリードリッヒの、このいかにもロマン主義的な絵画が「雲海の上の放浪者」と題されていたことの連想かもしれない。この少年も放浪のすえにようやくここにたどり着き、ホボと呼ばれたアメリカの放浪者たちがそうしたように、貨物列車に忍び込み、あてどのない旅を続けようとしている、そんな想像をしてしまう。
この写真は、『パリ郊外』として知られる写真集のなかの一枚である。ドアノーのパリとはあくまでその郊外なのだ。彼の写真に文章を寄せたブレーズ・サンドラールとともに、そう強調しておこう(昼間賢訳『パリ南西東北』月曜社刊)。ビストロのカウンターで新郎と並んで喜びに満ちた花嫁の手前には煤で汚れた労働者がいる。風のなかに佇む少女の背後にはバラックが立ち並ぶスラム。住宅地のなかに突き出た煙突を縫って走る鉄道、煤煙を吐く河岸の工場群、そしてその煙突を背景に自転車に乗って城壁裏の労働者共同菜園に向かう太陽王。「郊外の日曜」と題された写真の背景には真新しい団地を見ることができる。人民戦線内閣誕生の舞台ともなったビヤンクールのルノー自動車工場を写真に収めたのもまた彼、ドアノーだ。こうした眼差しはカステルの眼差しでもある。
もちろん私たちが郊外という言葉から連想されるさまざまな困難――失業と貧困、未就業、不安定雇用、そして将来展望の喪失、さらには社会の分断といったものは、49年に出版されたこの写真集をまだ覆い尽くしてはいない。たしかに、印画紙に写しとられた人びとはまだ若く、歩道橋を渡りきれば、黄金の三十年が彼を待っているはずだ。だが、不安を覆い隠してくれるはずの成長という物語もまた、この時点ではまだ彼らのものにはなってはいない。『パリ郊外』に収められているのは、そうした両義的な瞬間なのである。
ドアノーがとらえた郊外の両義性について、もうひとりの著者サンドラールは、いくらか意外なことにそれを中世的な性格をもつものとして描き出している。彼によると「民衆に関心を抱く芸術家はみな伝統に帰る」のだが、伝統とは「フランス人にとっては民衆の中世である」ということになる。もっともそれはモリス風のそれとは少しばかり異なっており、ここで彼が挙げる民衆は、聖堂建設という土木工事に引き寄せられ、市外から流入した人びとである。「細民、放浪者(ヴァガボン)、巡礼者たち、少しばかりの金持ちの商人も……。」なるほど見事な社会混合だ。もう少し耳を傾けてみよう。「流れ込んでくる狂人、障害者、狂信者、信心家、説法師、乞食、酔っ払い、ブルジョワ……」。郊外という都市の終わりを告げる周辺部分は、いまもむかしも変わらぬ不安定さをたたえており、そこには放浪と帰属という相反するふたつの属性が拮抗している。「このように、今日の郊外は、中世のころから変わっていない。」わたしたちは郊外において、異邦人となり、放浪者となり、そして浮浪者となる。
こうした視点は、やはり中世に遡った書物であるミシェル・フーコーの『狂気の歴史』を読み直すにあたって、いくらか示唆を与えてもくれる。その排除概念ゆえにカステルが、いくらかの距離を保とうとした書物である。フーコーはそこで『トリスタンとイズー』のある興味深い場面を引いている。王に謁見するために、主人公トリスタンが狂人に身をやつす場面である。ここでフーコーは、狂人にはあらゆる敷居を踏み越える力が付与されていることに注意をうながしているのだが、それはカステルの言い方を借りれば、トリスタンが社会喪失者であるがゆえに与えられていた力、ということになろう。社会の規範を踏みこえるとはそういうことである。その力は移動を強いられたがゆえに、運命としてそれを引き受けねばならなかったがゆえに、主人公に付与された力でもある。フーコーにとって狂人とは、なによりも放浪する存在であり、しかもどこにもたどり着かないがゆえに、そのひとつのリミットとして登場していたのだということに気づかされる。阿呆船についての彼の記述を引いておこう。

「船のなかに閉じ込められ、脱出もできず、狂人は千もの方向に手を伸ばす川、千もの航路を抱く海、あらゆるものの外部というこの巨大な不安に、その身を委ねられる。このうえなく自由で、このうえなく開かれたこの航路のただなかで、狂人は囚人となる。つまり永遠の十字路で鎖につながれているのだ。狂人とはすぐれて旅人であり、つまりは移動路の囚人である。たどり着くはずの大地は、誰も知らない土地である。上陸のあとも、狂人はみずからがどこからやってきたのか知ることもない。狂人に真実や祖国があるとすれば、それはただ、二つの大地の狭間の不毛な余白においてだけであり、いずれの土地もみずからのものとなることはありえないのだ。」

 狂人が、移動に閉じ込められた人びとであるとすれば、たしかにそれはカステルがいうように、中世における近代的個人でもある。鉄道操車場から伸びる千もの航路、この巨大な不安に立ちすくむわれわれがたどり着くべきはずの祖国――郊外――が、大地の狭間の不毛な余白でしかないとすれば、ではわれわれ――賃金労働者――とはいったい何者であるというべきなのか。ここにあるのはマジョリティであるはずのわれわれが、本来引き受けるはずであった条件、われわれのなかにある不安定性という核である。いまやそれを見誤る者はいまい。

社会喪失の時代――プレカリテの社会学

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社会問題の変容 ―賃金労働の年代記―

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パリ南西東北

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La banlieue de paris

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トリスタン・イズー物語 (岩波文庫)

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狂気の歴史―古典主義時代における

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