花登筺の60年代

もう一〇年以上昔、ある研究会で、花登筺の甥に当たる人の発表を聞いて書かれた短い文章。仲間内で回覧された。

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 花登筺がテレビの創成期において重要な役割を果たしたことは誰も否定できない。けれど彼はむしろ舞台の人だった。花登筺はテレビにあっても舞台演劇の演出家であったようにすら見える。

 花登善之助、のちの花登筺が敗戦を迎えたのは17歳のときである。彼の大津商業学校時代はちょうどアメリカとの戦争に覆われていた。そして中等学校が終わり、戦争が終わる。敗戦の翌年、花登青年は商業専門学校に入学し、新学制により大学となった同志社大学を1951に卒業する。いわゆる逆コースにいたるまでの、「民主化」の時代を彼は大学生として過ごす。そして同じ時期に彼は演劇と出会う。CIE(GHQのなかの教育関係の部局)は日本の民主化推進を目的とし、学校教育ともに社会教育を推進するが、それを中心となって担う機関として各地に公民館を設置した。事実それは地域の政治および(すなわち?)文化運動の中心となるのだが、20歳の花登善之助もまた大津公民館において「人間座」の設立にかかわることになる。だが目指すものが異なっていたのだろうか。半年後にはみずからが主宰し、「文芸座」を立ち上げるだろう。旗揚げ公演として花登が選んだのは菊池寛(「父帰る」)であった。人間座は菅原卓(「北へ帰る」)を選んでいるのだが、そこからはこの二つの劇団には方向性の違い−−というよりも時代を考えるなら、花登善之助の関心のズレというべきだろうか−−が伺えて興味深い。

 長雨のなかの晴れ間とでもいうべきこの敗戦直後の数年間を、高等教育機関に身を置いた花登青年は演劇とともに過ごす。もちろん養子に出された以上、時がくれば、彼は家業を継がねばならない。彼は同志社大学を卒業し、はれて学士となるが、就職先はしかし昔ながらの船場の商家、田附商会という繊維問屋だった。たしかにいつも彼は戦前との連続の中に生きている。彼は東京支社に配属となり、復興の首都をその目で見る。けれども演劇の夢はやみがたい。二年後の1953年、健康問題を理由に退社する。NHKの本放送が始まった年である。

 早生まれの彼はおそらく植木等と同学年であり、テレビの創成期を支える青島幸男らの世代よりほんの少しだけ年長である。青島と同じ1932年生まれに、谷啓小林信彦(ちなみに大島渚石原慎太郎五木寛之も同年。)33年に永六輔澤田隆治、あくる34年に井上ひさしが生まれている。世代論には注意せねばならないのだけれど、しかしここにある差はそれほど小さなものではない、と思う。彼らテレビの創成期を支えた若者たちよりも、花登筺はほんの少しだけ年上である。花登善之助が本格的に演劇を目指したとき、彼らはまだ中等教育の途中であり、テレビ放送開始時点にあっても、ようやく二十歳になろうかというところである。だがもうこのとき花登善之助はすでに花登筺になろうとしている。彼には演劇という背骨をもってテレビに関わろうとしていた。

 テレビ放映開始時、放送はすべて生放送であり、また録画が可能になったあとも、編集なしの放映が一般的だった。発表でも指摘されているように、その文法は、カットと編集の存在する映画的なものではなく、むしろ舞台的なものである。あるいは幕間がない以上、舞台以上に舞台的であったかもしれない。スタジオの三ヶ所に設えられたセットのあいだを、衣装を着替えながら移動する俳優はさしずめ猿之助といったところか。「番頭さんと丁稚どん」に至っては、スタジオ不足のために、文字通り舞台のうえ、それも南街シネマの上映の幕間に生中継された。澤田隆治を驚かせたこのアイデア花登筺にとってみれば当たり前のことかもしれない。花登筺はテレビのなかで舞台を上演していた。常に複数の人間が画面に存在するという彼の演出の特徴は、おいそれとは移動できない重いカメラのせいだけではなかった。

 花登筺は舞台の人であった。そしてこのことはテレビとは何なのだろうかという問いにあらためてわれわれを向けなおす。1950年生まれの彼の甥が大学時代に見た叔父の作品は、すでにいくらか野暮ったいものだった。たしかに東京の笑いにくらべ大阪の笑いは野暮ったく、さらに吉本に比べ松竹の笑いは野暮ったい。だがこの場合「野暮ったさ」に対立しているのは「洗練」ではない。(このなかで「芸」がもっとも磨かれているのはおそらく松竹だったろう。)「野暮ったさ」に対立するのは、むしろ「才気」なるものによって生み出される「新奇さ」である。新奇さは、定義上相対的なものであり、それ自身にしかかかわらない。何か土台や基礎や、蓄積を必要としないばかりか、それに対立する。蓄積や土台、つまり「芸」は「量産」に向かない。テレビは昨日まで一介の学生にすぎなかった無芸の素人も差別なく受け入れる。青島幸男や大橋巨船の「才気」はたしかにテレビ的である(ところで「才気」とは何なのか)。経験の貧困、とベンヤミンならばいうだろうか。テレビのなかで芸の堕落を嘆くことは倒錯である。テレビはすぐれて「民主的」なメディアであり、堕落すべき何かをそもそももってはいない。

 花登筺はテレビというものにたいして自然な距離を保っている。彼はテレビのなかにいながら、同時にそのなかにはいない。とはいえそれは不思議なことではないのかもしれない。思い出してみれば、そもそもあの時代に彼は菊池寛を選んだのだ。それは何を意味していたのか。花登筺はデモクラシーという残酷な制度のともに生きたのだろうか。あるいはそうではなかったのだろうか。