アリンスキー・ノート4

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細かい話は中略。
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社会学と社会運動

バック・オブ・ザ・ヤードはかつて悪名高いスラムであった。偉大なジャーナリストであり、改革のための活動家でもあったアプトン・シンクレアがこの都市の底辺生活と人の使い捨てを『ジャングル』のなかで描き出そうとしたとき、彼が取り上げたのは、このバック・オブ・ザ・ヤードとそこに隣接したストックヤード(家畜置き場)であった……。
1930年代にはこの地域の稼ぎ手はおもにストックヤードで働いていた。そしてその10年のあいだ、人びとは肉のパッキング工場での組合運動に深く関わるようになっていた。以前は、もともとの出身国籍からくる対立のためにこの地域は分断されていたのだが、組合の持つ、この新しい戦闘的な態度を支えにして、手にしたチャンスを逃すまいと決心したのだ。労働運動はこの問題をいったん脇に置くための格好の機会だったのだ。何人かのとても優秀な人びとが、地域の組織化の実験を開始した*1。バック・オブ・ザ・ヤード評議会と呼ばれたこの組織は、勇壮なスローガンを採択した。「We, the people, will work out our own destiny. 我ら民衆、その運命はわが手に。」
[注1]そのリーダーは、バーナード・J・シェイル神父と社会学者にして犯罪学者のソール・D・アリンスキー、そして当時、近隣公園の管理者であったジョゼフ・B・ミーガンである。アリンスキーは組織化のための理論と手段を『ラディカルよ目覚めよ』という書物に書いている。
ジェイン・ジェイコブスアメリカ大都市の死と生』1961

ソール・アリンスキーが、シカゴのマクスウェル・ストリートに生まれるのは、アプトン・シンクレアが『ジャングル』を書いた四年後である。当時はまだ東欧系のユダヤ人街であったここは、同時に貧民街でもあった。その後まもなく当時新興の住宅街でもあったダグラス・パークに引っ越しをする。ささやかではあれ成功の証であった。13才のとき、父母が離婚、父は家族を残しカリフォルニアへと去る。母とともに残された息子とその父との関係はきわめて薄いものだった。だが、父は彼に学歴を残す。ユダヤ系であった彼が名門私立大学でもあったシカゴ大学に進むことができたのは、確たることは不明であるが、どうやらこの商才に恵まれていた父の援助によるものであったようだ。シカゴ大学では社会学が彼を待っている。学部ではバージェスについて学んだ彼は、大学院では、非行少年の調査で名高いクリフォード・ショーのもとで研究を行う。ショーにとって調査とは、限りなく「介入」に近いものであった。
ショーの指導もと、アリンスキーは才能を発揮する。シカゴの貧民街に生まれ、人種的、文化的マイノリティであったことが、あるいはそうした能力をはぐくんだのだろうか、彼は調査の対象とされたひとびとの懐に入り込み、いつのまにか信頼を勝ち得るという独特の魅力を持っていた。まずはシカゴのカポネ系ギャングの調査で、ついでショーが組織したサウス・サイドの不良少年たちの調査では、よき相談相手、兄貴分として彼らにとってなくてはならない存在となった。とはいえそれは科学的調査としては微妙な問題を胎んでいる。たとえば、不良少年の非行を押しとどめ、はたして不良少年の調査は成立するのだろうか。つまり飲酒や万引きやあるいはさらに悪質な犯罪に手を染めようとしているとき、それを押しとどめるべきなのだろうか、あるいはそれを調査するべきなのだろうかという問題である。ショーはこうした問いには、押しとどめるべきであると断固として答える、そういうタイプの調査者ではあった。しかしこの問題は、少なくともアリンスキーにとっては本質的な、人生にかかわる問題となる。そして彼がそのことを知るのは、クリフォード・ショーの次なる調査地、バック・オブ・ザ・ヤード、つまり「ジャングル」でのことであった。
アリンスキーが、ショーの始めたバック・オブ・ザ・ヤード、つまり家畜一時置場の裏手に広がるスラム街の調査に参加したのは1939年、30才の時である。前年に始められた予備調査によると、この「ヤード裏」はまだ75%が外国生まれ、つまり移民であり、かつまたその過半数ポーランド系であり、そしてカソリックがおおよそ65%という比率であった。調査の対象はここでもまた非行少年であり、非行の原因を探ることが目的とされていた。このプロジェクトが始まったとき、シンクレアの『ジャングル』の出版からすでに30年以上が過ぎていたにもかかわらず、最初に行われたのが、水質の調査であったということからも、この地域がいまだ極貧のなかに喘いでいたことがわかる。しかも前年の38年は、29年の世界恐慌以来、最悪の不況であり、この地の失業率は20%を越えていた。だがシンクレアの時代とは異なることがあった。恐慌からの立ち直りを目指した大統領フランクリン・ルーズベルトニューディール政策は、アメリカの労働運動を活性化する。シンクレアの矢は、ようやく心臓に届こうとしていた。
こうした調査の鍵となるのは、対象となるコミュニティをよく知る人びとの支援を獲得できるかどうかである。ときにインフォーマント(情報提供者)とも呼ばれるこうした人びとを介して、調査者はコミュニティの奥深くに入り込んでいく。やはり、このときもアリンスキーの類い希なる才能が発揮される。肉のパッキング工場の労働組合カソリック教会の神父、セツルメント・ハウスのリーダーたち。すでにこの地に住む人びとや若者たちの支援に携わっていたこれらの人びとのうちでもとりわけ重要であったのはカソリック教会と労働組合であった。この土地が「コミュニティ」としてひとつにまとまることを阻んでいたのは、「民族」の違いである。ポーランドアイルランドリトアニア、スロヴァキア、ボヘミア、そしてドイツさらにはメキシコ。宗派も違えば、子供が通う小学校もそれぞれに違う彼らを、じょじょにひとつの利害でつなぎ始めていたのが、この労働組合PWOC(=Packing Workers Organizing Committee)であった。
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民族間の対立はユダヤ系であったアリンスキーにとって深刻な問題であり、ドイツで行われているユダヤ系への迫害は、ここアメリカでも起きるかもしれない切迫した危機であった。アリンスキーにとって労働組合は、そうした民族対立を乗り越え、利害あるいは運命の共同性という別の水準の原理によって、コミュニティあるいはネイバーフッド(近隣集団)をまとめる力を持つ重要な組織であった。やはりまた複数の民族集団(ポーランド系、アイルランド系、メキシコ系・・・)を信仰によってまとめてゆく(はずの)カソリック教会ともども、この労働組合は、アリンスキーにとって、住民の組織化のための重要な手がかりとなる。利害こそが、真の紐帯を作ると考えるアリンスキーにとってあるいはそのことが重要な要素であったかもしれない。

シカゴ学派にはリポーター・タイプ(報道型)とリフォーマー・タイプ(社会改良型)がいると言われる。バージェスそしてショーというアリンスキーを指導した社会学者はふたりとも後者のタイプの研究者であった。だがアリンスキーはどちらでもない。いやどちらでもなくなってしまったというべきだろう。なぜならアリンスキーはこのバック・オブ・ザ・ヤードで、調査者であることをやめてしまったからだ。彼は人びとを組織すること、つまり組織者(オーガナイザー)をみずからの一生の役割と定めるのである。