下バーバ

に出した手紙が戻ってきてしばらくになる。下バーバはおそらく東京の生まれで、大阪で商売をしていた男性と結婚した。会ったときには92であったか3であったか、いずれにせよ70年以上はもう大阪に住んでいたはずだが、しゃっきりとした東京弁を話し、SOPにたいしても、いつも「坊や」と呼びかけていた。おそらくはほぼ毎日のように拭き掃除をしていただろう部屋はいつもきちんと片付けられていた。趣味でもあろうし、惚け防止の意味もあったのかもしれない、さまざまな手作りの小物も、散らかることなく、しかるべき場所に収められ、ぼくらが行くとこれをあげましょうといって、引き出しや箱の中から引っ張り出され、中を見ると他にもたくさんの小物が重ねられているのが見えた。
比較的商売は上手くいったようで、子や孫、ひ孫も含めて20人ほどもいただろうか、一族の真ん中に座った下バーバの写真がいつも飾られていた。直接的には、娘のひとりであるSさんがこの団地に住んでいたから、目の届くところにということだったのだろうが、なぜ下バーバがどのような経緯でこの団地にやってくることになったのかは知らない。Sさんの息子、といっても、それでもそれなりの年齢の男性が、ときおり訪ねてくることはあったが、ほとんどがその娘のSさん(それでも70代に近かったはずだ)か、娘さんの信じていた宗教関係のひとびとが主であった。Sさんも息子と同居していたわけではなかったはずだ。
 わたしはね、この坊やがね、大好きなのよ、と言い、小さな時は椅子に座って自分の膝の上に抱いて、おかしや果物を、親としてはややあげすぎかなと思うぐらいに食べさせてくれたが、もう重くてもちあげられないわね、と言うようになるのはあっという間だった。まだ言葉もしゃべれなかった頃は、下バーバの部屋にいても飽きる頃はなかったが、いつしかお菓子を食べてしまうと、すぐにもう帰ろうというようになり、そのたびにもう大きくなったものね、すぐだわねえと、こんなおばあちゃんの家にいても退屈だわね、と何度も経験したからだろうか、それとも関東と関西の感情表現の違いなのか、それほど残念そうでもない様子で家を送り出してくれた。
 夕飯の支度をし、それをしばしば母親に届けに来ていたSさんにもSOPはなつき、公園を横切るたびに遊びを中断して駆け寄るものだから、Sさんも満面の笑みでSOPを手を振ってくれた。前にも書いたが、そのSさんが重い病にかかり、いつしか下バーバが娘さんのために弁当を作り、タッパーに詰め、杖代わりの乳母車を押して、公園を横切ってそれを届けに通った。下バーバもそうだったが、Sさんもどこか上品な美しい顔立ちをしており、年齢よりは若く見えたが、辛い治療のためにひどく容貌が変わったことを気にして、見舞いには行ってあげないほうがいいかもしれない、ということだった。坊やがショックをうけるかもしれないわ。90をいくつも超えた母親が、70代だったような気もするが重い病にかかった娘の看病に公園を横切るという姿は、おそらく予想とは異なった老々介護の姿ではあったろう。ほとんど30分以上かかるようなスーパーへの買い物を日課とし、近所の酒屋ではそのあまりのかくしゃくとした姿に、立ち飲みの客から、おばあちゃん拝ませてと手を握られ、肩や腰をなでさすられた下バーバではあったが、やはり体だけから来ているのではない疲労からか、なにかはかなげな空気を身にまとうようになっていった。
 娘がこの団地を去ったあともしばらくは階下に下バーバは住んでいた。当てが外れたというよりは、しかし気が抜けたといったほうがいいような印象すら受けた。その少し前からだったか、デイケアに行くようにもなってはいたけれど、どうもあそこは子供扱いされて、好きになれないとこぼすほどには、精神的にも自立した女性だったが、じょじょに、床に伏せることが増えてきたから、いつまでも一人暮らしはできるものではない。団地を去る日がくることになった。