親ばか

なものだから、忘れないようについつい書いてしまう。
テレビを見ていると、2006年の話が出てきた。
「2006年は10月だよね」とSOP
「? 2006年は12月まであるよ」
「でも2006年は10月じゃないの」
「?」
「ええと・・・2008年はあ、・・・12月でしょ」
「?・・・(ひょっとして!) 2007年は?」
「2007年はあ、・・・11月でしょ」
「!(引き算できた!)」
こんだけ。
カレンダーという観念が理解されていないということなので、冷静に考えると量という観念がよく分かっていないか、順序に量が対応していないから、こういうことになるのだろうけど。まあそれでも考えているということが嬉しい。

いくつかこうした小ネタを書いては下書き一覧というところにためていたのだが、今見たら見出しの一行だけ残してなくなっていた。備えにならなかった。

アメフトのプレーオフを流していたテレビのスポーツ番組で、ブルース・スプリングスティーンの曲(いうまでもなくアノ曲)が流れる。「ブルース・スプリングスティーンの・・・」というスポーツライターの説明に相手をしていたアナウンサーの女性が「ブルース・スプリングスティーンって、どんな歌手なんですか?」という反応。ついついググって年齢を調べてしまう。1980年生まれ。微妙。台本がそうなっているのか、それとも素なのか。

日本のwikipediaはしかし女子アナとか、こういうことだけ妙に詳しい。

ゆとり教育の話はいろいろする人が多いが、大綱化の話をするひとは案外少ない。ちなみに某大学のとある学部ではいわゆる昔で言う般教は3コマぐらい、1年の前期だけで完結することも可能みたいだ。じつはぼくは(イデオロギー的には)専門教育重視派なのだが、さいきんちょっと不安になってきた。(もちろんこのあたりは大学の方針に属することであるので、とくに異論を申し上げるつもりで書いているわけではない。為念。)もちろんどんな高校にいたかによっても違うだろうし、たとえば読書するタイプかどうかによっても違うのだが、ある種の条件が重なってゆくと、大綱化以前の人びとがぼんやりと想定しているようなある種の前提からはありえないような状況が発生している可能性はある。

ちなみに専門教育の重視は、ある意味で職業教育の重視ということともゆるやかに連携していることであるので(応用科学系の場合)、だからこそこうした方向性には大枠で賛成しているのだが、文系、とくに文学部(あるいは教育学部や教養部改組系学部をはじめとしたそのサブセット)のほうしか見ていないと、そういうことに気がつかないケースがあるかもしれない。意外と高校段階から事実上かなりの専門教育をやっているようなケースが、ここ10年ぐらいで増えているのではないか。

日本のwikipediaの話のあとにこういうことを書くのも、まあある意味失礼というか、なんなのだが。

しかし話がズレついでに、大綱化のあとに来た、大学の種別化の話も、残酷な話で、あんなアドバルーン打ち上げなくても、実態はまったくそのようになっていたのに、ああいうアドバルーンを打ち上げたものだから、教育重視の大学でひじょうに満足して先生をやっていた人たちが、突然慌てて研究型の大学目指して、変なことをやり始めて、博士課程作ろうとしたり、部局化しようとしたりという悲喜劇を目撃してしまったことがある。喜劇的なだけならいいのだが、ぼくの印象では悲劇的要素も結構大きい。つまりそのことに気がつかないまま、まさに自分がそうであったものをとつぜん否定しはじめてしまったのだ。

それに残酷なことを言うと、研究者には向いていない人に限って・・・。なぜかというとそのようなひとは、往々にして研究者をポジションないしは「身分」であると考えているからであって、たしかにそれはそうには違いないのだが、だからといって・・・。なぜならば結局はそれは同業者の評価以外に物差しがないからであり・・・。要するに最終的には、移動しかその証明の・・・

最初にいた大学はまあ丁寧に面倒を見ていたのだ。当時はまさにそのことが不満でもあったのだが(ダイガクセイトイエバ、モウオトナナノニ アレコレ オセッカイニスギル)。しかもその面倒の見方たるや、広い意味での生活指導の側面が大きかった。だから仕事を始めたばかりの研究しかしたことのない新米教員としては、もっと勉強の面倒を見ろという気分だったわけだが、まあこの年になって振り返り、いろいろ勘案すると適切な方針だったような気もする。たんに結果としてそうなっていたのであれ。いやつねに結果としてはわりと穏当なところに落ち着いてゆくのだ(下部構造による決定には逆らいがたい)。

いや政策担当者にとっても、大きなアドバルーンを飛ばして、立派な業績を作りたいのは分かるが、もう少しスマートにやってはいただけまいか、公益というものもあるのだから、という印象を持ったのをふと思い出した。

それにしても、機嫌良くよい教師であった人は大勢いたのだ(ぼくはなにか不穏なことを言っているだろうか)。

下部構造に逆らうのは、なかなかたいへんだというのは、社会政策が(それだけでは)すぐには、なかなかうまくいかないことからもよく分かる(供給サイドは気の長い話が多い)。

欲望の話は、話としては早いのだが、なかなか思う方向に進まない。

ワークシェアリングなどという人も多いが、まずは大学の先生から始めよ、という話をあちこちから聞く。まあむべなるかな。ただこれは個人の感情論にすぎないのだが、そういうのはしかしまずはやたらと博士を生産したところから始められたい、という気分もある。そういうところは死ぬ気でCOE(とはもういわないのだったか)とか、でかい金をとってきて、期限付きとはいえないよりはましなのだから、まずはそれで雇用を確保するというのが大人の対応だろう。というか理系は見ていると動いている金も多いということはあるけど、人手が研究の質と量にも相関しているので、それができないと死んじゃうとというか、自動的にそういう感じにはなっている。
そういうものとは無縁の場所にいたので、文学系のそういう巨大プロジェクトというのを(観客以外の立場で)見たことはないのだが、きちんと人を雇っているんだろうかという素朴な疑問。どうなっているんだろう。まあ人件費に使わないと使えないだろうが、どの程度意識的にそうしてるんだろうか。

TAなどというのも、普通に考えると仕事が増えるだけの面倒なものに思えるのだが、どうもそういう運用をしているひとばかりではないようだ。せめて理系風にRAとして使えばまだマシかもしれないが(というかぼくもTAをやったことがあるけど、今考えるとあれはRAだったな。研究所だったからまあ仕方ないのだけれど)、たんなるお小遣いをあげるあしながおじさん/おばさん気分で使っている人がいたりすると、これが一番残酷なことになりそうな気もする。大学のランクにもよるけれど。

まあそんなことを書くのも、TAというのがいまのところ科目にたいして出るのではなくて、人、それも実質的に教員にたいして出る仕組みないしは運用になっているところが多いのではないだろうかと思うからだ。つまりあれは職業訓練でもあるという側面があんまし理解されていないような気もする。

しかし訓練したからどうだ、と言われると、まあそこは現状では、マクロな需要と供給という下部構造のほうが大きいのだろうが。

かつて、その部分を部分的に担っていた(いる?)のが塾や予備校ではあったし、非常勤講師というのもそういう側面はあったようだ、が・・・。団塊世代の退職とポスト削減のバランスがどうなっているかは、しかしさすがに文科省は把握はしているんだろうが。

まあそういうわけで取らないといけないところは頑張って取るというのが、まずは最低限の対応なんだろうな。

まあ大学院大学教授と肩書きに書きたい人が多いんだなこれが。だからせめてな。

久しぶりに書いたので、かつてのようなドクハクになってしまった。