金曜は

ひさしぶりにいろいろな話をした。
飲んでいるときに、あるひとと電話で、子供が生まれてどう、自分の分身みたいでしょうと言われて、反射的にむしろ子供が生まれてから孤独をひしひし感じるようになったと返事をした。反射的にそう答えたのは、折に触れてこのことを反芻して考えていたからで、今もういちど考え直してもやはり、孤独ということがはじめて実感を伴ったものとして感じられるようになったのは、SOPが生まれてからのことだ。
いま目の前にいるSOPはこれほど小さく、ひとりでは生きてゆけないにもかかわらず、すでにぼくの意のままにはならず、彼が何を考えているかもすでによく分からない。そしてこれはあくまで運がよければなのだけれど、もしSOPが成長し大人になりそして老人になってゆくとして、もうしばらくすれば彼は自分の時間を生きるようになり、ぼくという存在なしに生きてゆくようになる。そしてついにはぼくが死んだあと、ぼくのいない世界を生きてゆきさえするのだ

運がよければ、だが。

これまで、ぼくが死んだ後の世界というのは、どこか他人事でしかなかった。それはつまり、まったく抽象的なものでしかなかったということでもある。けれどSOPは、ぼくがもはや存在しない世界を自分自身の人生として生きてゆくことにある日思い至った。その時間、その未来は、やはり同様に具体性を欠いた想像の対象でしかないにもかかわらず、SOPにとっては、具体的な時間であり、あるいは友人や妻や子供と、ときには孤独ともに生きる具体的な世界であるということに、遅まきながらに気がついた。そこにSOPは欠くべからざるものであるのだが、ぼくはそうではない。そしてそのことに、いいようのない孤独をようやく実感を伴いつつ感じることができたのだ。
それほどまでにSOPは他人であるということが理解できたということでもあれば、はじめて他者とか他人ということが理解できたということでもある。mayakovとはどこか同じ時間を生きており、どちらかが先に死ぬにせよ、それはひとときのことであり、つまり同じ同心円を描く世界に属しているという感覚がある。だがSOPにはむしろもう同じ世界を生きてはいないということを強く感じている。
SOPにはSOPの人生があるということを知って、ようやく同時代という平面とは異なる平面の存在を実感として理解し、そしてその手の届かない世界を生きるSOPを最終的には見守るしかない無力さが、孤独となって迫ってきたということかもしれない。

良くも悪くも親にたいしては、そのような感慨を持つことはできない。同時代の平面はおそらく過去に向かってはもっとなだらかに延びているのだろう。

まだうまく書けない。けれどもSOPが生まれて、ようやくぼくは孤独になり、ひとりになったのだというようなことを話そうとしたのだけれど、いまでもまだうまく説明できたような気がしない。

ギブスは金曜日にとれる予定。